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久々にnote有料を公開してみて思うこと思ったこと気付いたこと 2024/04/14

1年くらい前に、有料マガジンをやめた。そこから1年経って、昨日書いたnoteを有料にしてみた。なぜ有料にしたかというと、素直にものすごくエネルギーが乗っているなと思ったからだ。それから、誰の目にでも触れられる状態で外に出すこと、誰の目にでも触れられるところに晒すのが嫌なことを書いたからだ。noteは無料で書くと(それがデフォルトなのだが)、そこに書いたものは半永久的に世界中に晒されることになる。半永久的に、と書いたのは自分がその記事をどうするかを変えればそのときに設定が変わる可能性を孕むからだ。

価値があると思ったから価値をつけた有料にしたのではなく、結界を張るような気持ちでそうした。誰が読んでくれるのかを知りたい気持ちも正直あった。たくさんの人に読んで欲しいのではないが、自分が価値をつけたものがどう受け容れられるのかにはいつも関心がある。その関心の中には、どうしても多少の恐れが孕まれる。

誰かに読んでもらうために書いてない文章なのだから、誰にも読んでもらわなくてもいいのかといえばそういう訳でもない。なぜなら、そもそもoutputするツールとしてnoteを選んでいるからだ。本来ならば、自分だけにわかるところ(offline的ツールの何か)に書いておけばよい。でも、昨日〜今朝のわたしは、それを選ばなかった。

そもそも、最初は有料にするつもりはなく、ただただ内面の吐露をしようと思って書き始めた。そこからの経緯は上に書いた通りで、結果わたしの望んだとおり、たくさんの人に読まれるということはないnoteになった。

300円という金額は、有料noteのデフォルト金額だ。そのままにしただけ。100円でも200円でも良かったけど、なんとなくデフォルトで出てきた金額にした。1記事でそれが高いことはわかっていたが、わたしは自分の書いたことに300円以上の価値があると思ったからそうした。500円でも良かったけど、それはわたしの中のバランサーがYESと言わなかった。そしてそれは適切であり適当であり妥当であるし、そうであったと感じている。

その人の感じていること、考えていることというのには、ものすごく価値がある。なぜなら、その人は世界に1人しかいないからだ。もちろんわたしもその1人で、わたしがnoteに書いていることはわたしが今世生きてきた分の体験の全てと今世よりも前だったり未来だったりで体験したことの全てが含まれている。書き方がめちゃくちゃ怪しいけど本当にそう思っているのだから仕方ない。こう書かないと違和感が出るので、伝わるのか伝わらないのかとか書かない方がいいかもとかそんなことを考えるよりも何よりもしっくりくるほうを選ぶしかない。内容については、自分にとってこれより苦手なことは無いと思うくらいの本音とそれに対する長年の考察の結果の現時点での答え(ほぼ辿り着いたと思われるもの)を書いたのだから、わたしはやはりそこに価値をつけたい。ただ、価値がどうとかいろいろと言っているがそれは実のところどうでもよくて、わたしは事実を確認したかったのだと思う。それは何かというと(わたしとわたしの書く文章とエネルギーの循環の方法としてtotalで見たときに)、「わたしは有料note向きではない」ということ。

向き不向きもどこに定義を置くかで変わってくると思うし、誰かにとっての答えは別の誰かには全く関係ない。ただ、きっとわたしが伝えたいこと、出てきたことは、著作権フリーレベルで外に出す方が自分の使い方として合っているのだと思う。なのに、自らそれを止める行為をしているのだから(有料にして囲っているといえるので)、違うということなんだろうと思う。

毎月1回、全体と星座ごとにタロットやオラクルカードを使って受け取ったメッセージを書いていたこともある。購入していただくことで価値に変えていただきたくて有料という設定にしていたが、実際は無料で全体に出したい気持ちだった。でも、それをすると、当時はわたしが疲弊してしまっていた。その自覚があったから、価値をいただくことでわかりやすく等価交換ということにさせていただき、そのかわりわたしは毎月その金額よりも価値があると自分が心から思えるメッセージを書かせてもらっていた。当時購読してくださった皆さまには、今もずっと心からの感謝を感じている(本当にありがとうございました!)。

自分の書いたものに自ら価値をつけて、その価値をいただくというのは、本当にたくさんの学びがある体験だとしみじみ思う。セッションの金額とかそういうのも全部同じで、ここにあるものに価値をつける。存在するだけで価値があるから、わざわざ価値金額をつけなくてもいいという承認の仕方もあるし、存在するだけで価値があるのだから、その分の価値金額を見出したいからそうするというのもいい。どちらも間違いではないし、むしろ体験としては素晴らしいからどちらも100点満点、大正解としてよいように思う。向き合うか向き合わないか、やってみるかやらないか、それだけでこんなにもたくさんの体験ができて、たくさんのことを学べて、たくさんのことを感じることができるのだから、「有料noteにする」という言葉にするとたった9文字のこの言葉で味わえるエネルギーは本当にすごい。

折角書いたのだから読んで欲しい。でもわたしの思う価値を払って欲しい。絶対それ以上の価値が、癒しが、解放がそこにはあるから騙されたと思って読んでみてほしい。ただ、覚悟をして欲しい。わたしの本音を受け取る覚悟。そういう傲慢さが、きっとわたしに1記事300円の価値をつけさせたのだと思う。わたしはそこに価値をつけられた自分にとてもざわつきながら今この文章を書いている。書いてみたら本当にこの上なく傲慢だなと感じたからだ。でも、それを表に出すことを許せたことは、わたしにとってとても価値がある。でも、そのことを書いているこのnoteは有料にする気は無い。全くない。そういうこと。

この無料noteを書くために、1つ前のnoteを有料にしたのであればそれはとても価値がある。それから、書くのにこんなに時間(と文字量)がかかったけど、例えわたしから見た視点で、わたしの学びで、書いたことは全てわたしのなかにあるものだから対象となった登場人物の名誉が毀損されることはないと頭でも魂レベルでもわかっているのだけど、どうしても両親の名誉を守りたかったというのが本音。自分でもびっくりするが、昨日から何度も自分に問いかけていて変わらないのでやはりそうなのだと思う。だからそれも仕方ない。わたしはきっと甘いのだろう。でも、そうしたい自分が今ここにいる以上、そうするしかない。親の悪口くらい罪悪感なく言えないなんて、まだまだ囚われているんじゃないのと言われそうだが、それでもわたしは親の悪口は言いたくない。悪口にきこえることしか言えないならそれは、わたしの受容が甘いからなのだ。だとしたら、わたしはどこまでも甘い自分を許容していくしかなく、そのプロセスは自分にとって大切なものなのだと自覚し続けるしかない。守りたいもののせいで自分の立場が危うくなっても誤解されても嫌われても未熟だと思われても、それでもいいと思ってしまうプライドの低さが、わたしのいいところなのか悪いところなのかは、いつもよくわからない。

文章が独りよがりすぎて正直気持ち悪い。でもこれがわたしなのだと思う。バランスなんかとれない。美しさなんて求められない。でも、ここにあるものをどこまでもクリアに表現することにわたしは美しさを感じるから、どんなに矛盾していてもおかしくても独りよがりでもやはりそれはそうでしかなくて、どこまでも自分を客観視しながらめちゃくちゃ主観的なこんなことを書いているわたしは、結局ナルシストなんだろうなと思っている。ものすごく醜い自分が出てきたなと思うけど、結局どんなに取り繕ってもこのわたしはわたしの中にいるし、出さなかったから隠したからといって消えたりしない。自分とはそういうものだ。その自分と折り合いをつけて、納得して前に後ろに斜めに、つまりそのとき進むべき方向に、真っ直ぐ進んでいくしかない。



2024/04/14 (104/366)


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