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三国志13 蜀志劉備伝 #7

南皮城攻略戦

184年8月

 黄巾党の張角勢に潜入させていた密偵が帰還してきた。報告によると、数日前に張角勢は大慌てで『冀州』の『鄴』方面に転進し、『南皮』には数千の守備兵と傷病兵しか残っていないという。

 「南皮城にはまともに戦える兵は残っていません」

 「兄者ぁ、南皮城攻め俺にやらせくれぃ」

 「まさに好機ですな、ただ・・・」

 「雲長よ、我らは攻城の備えを欠いている」

 もともと中山の制圧を目的とした劉備勢には攻城の予定はなく、『雲梯』や『衝車』など『攻城兵器』の備えを欠いていた。真正面から城攻めをするとなると兵に無駄死にを強いることになる。劉備には兵を使い捨てにするような考えなど毛頭ない。

 「孫子曰く、城攻めは已むを得ない場合に行う下策という、我らはまず謀を伐つ」

 劉備は関羽と一計を案じ、全軍で城壁の傍まで近づいて、敵守将程遠志を真っ赤にさせるほどありったけの罵詈雑言を浴びせかけた。これは張飛が最もうまく罵った。

 8月2日、挑発に乗った敵将程遠志は五千の騎兵を率いて城門を飛び出し怒濤のごとく攻めかかってきた。劉備と関羽は「為て遣ったり」と『河間』の陣まで後退し、川を挟んで程遠志隊と対峙した。

 猪武者程遠志の荒々しい性情を、数度打ち破った関羽はよく承知していた。劉備と関羽の一計は挑発によって程遠志と守備兵を引きずり出し、劉備勢に有利な野戦に持ち込んで一網打尽にすることであった。守備兵がいなくなれば如何に『南皮』の城壁が高くても守り切ることは出来ない。

 8月4日、敵将程遠志の騎馬隊五千は愚かにも橋を渡って突進してきた。劉備勢は正面からぶつからず、呉巨の騎兵隊二千を囮に使いながら、上手に挟撃の形に持ち込んだ。しかも関羽隊三千は敵の退路である橋を完全に制圧している。

 囮の呉巨は劉備に大きな恩を感じていた。前回の黄巾党戦で功を焦って軍令を無視し、その結果窮地に陥ったところを劉備に救出された。本来なら軍令違反で斬首される所を不問とされ、逆に『勝敗は兵家の常』と励まされ、更には戦死した部下の弔いや傷病兵の手当てなどの手配を密かに劉備が肩代わりしてくれたのである。これに呉巨は感激して今戦の最前線を是非にと買って出たのだった。

 8月6日、退路を断たれ包囲された程遠志は関羽を見つけて怒り心頭に発し、一騎討ちを仕掛けるが、またも関羽に一撃で追い払われた。

 「程遠志よ、腕を磨いて出直してくるがよい」

 関羽は一騎討ちでの大勝を宣言し、黄巾勢に強烈な敗北感を植え付けた。

 「万夫不当の燕人張翼徳とは俺のことよ」

 関羽の大勝に乗じて、張飛の猛進撃が始まる。

 8月8日、一気に士気を失って恐慌状態となった程遠志隊五千は壊滅。包囲網の僅かな隙をつき程遠志は逃げ切った。戦闘終了後、劉備勢の戦死者、負傷者は極めて軽微で、劉備にとってまさに思い通りの完勝となった。

 同日、野戦での完勝に乗じて『南皮』に攻め寄せた劉備勢一万四千は守備兵がいない城門の打ち壊しに取り掛かる。

 「南皮守備兵達よ、矛を収めて降伏せよ。決して悪いようにはせぬ。私を信じて欲しい」

 劉備は平服に着替えて堂々と城門の前に立ち降伏するよう説得を始めた。『南皮』守備兵には既に戦闘が無意味であること、抵抗しなければ兵も助命し、逃げる者は追わず、開城後の城内での略奪行為は行わない旨、劉備は宣言している。

 8月16日、『南皮』城攻城戦を継続中の劉備のもとに、『劉幽州』の『侍中』が命令を伝えに訪れる。

 「劉備殿の多大なる功績を認め、軍師に任命されるとの事」

 「劉玄徳、軍師就任を謹んで拝命致します」

 劉備は劉幽州『劉幽州』の『軍師』重臣に就任すると、劉焉軍の『軍師』として、『冀州』西方の要衝『常山』の【集落懐柔】を文官の『簡雍』に取り掛からせた。これは黄巾党の本拠地、『冀州』の『鉅鹿』城に進軍する際の要衝を予め隠密裏に押さえるという重要な策であった。

 「南皮城攻城中に千里の先を計るとは、劉備はなかなかの傑物だな」

 この献策に『劉幽州』は大変満足し、更に劉備に信頼を置くようになる。

 8月23日、既に敗北が決定的となっている『南皮』守備兵達は開城後の復讐を恐れて、城門の破壊に抵抗はしないものの、助命については簡単に信じることはできず、自ら開城することに二の足を踏んでいた。その間、劉備勢は『南皮』守備兵からの組織的抵抗を受けず、着々と城門の破壊と『南皮』城内の説得を続けた。

 8月30日、ついに劉備勢は城門の一つを破壊し『南皮』城に入城を果たした。攻城戦での戦死者、負傷者はなし、劉備の理想とする勝利の形となった。開城後、黄巾党の守備隊は神妙に従って降伏し、事前の宣言通り劉備から助命を許された。また劉備勢は略奪を厳に戒めて治安維持に努めたため大きな混乱もなく、『南皮』の民衆からは大いに歓迎されることとなった。

 「劉幽州様は南皮城の慰撫に全力を尽くすよう、劉備様に南皮への異動を命じられました」

 『劉幽州』からの伝令が劉備に『南皮』への異動を伝える。

 「この劉備、謹んで拝命致しますとお伝え下さい」

 劉備は恭しく、『劉幽州』の異動の命令書を受け取った。

 日も落ちかけようとする頃、『南皮』城陥落の戦勝気分を吹き飛ばす知らせが劉備にもたらされる。周囲に放っていた偵察隊によると、南西方面から黄色い騎馬の一団が迫っているとのことだった。劉備は最優先のこととして、壊した城門を夜を徹してでも修理するよう全軍に下知。目まぐるしく防衛戦への準備に取り掛かった。

 同時に、衝撃の情報も届くことになる。

 「8月下旬、敵首魁張角、鄴にて官軍に討たれました」

 官軍が全土に放った伝令の一人が南皮の劉備勢にも一報を告げた。伝令は黄巾党の張角軍二万は官軍の『都督』『皇甫嵩』将軍率いる約五万に『鄴』にて包囲殲滅され、一人残らず皆殺しとなったと誇らし気に伝えた。

 

 伝令から詳細を聞くと、8月初旬に『鄴』城で官軍と対峙することになった黄巾軍は総勢二万で総大将は張角。援軍に駆けつけた『管亥』と二手に分かれて防衛戦を戦った。

 一方、官軍総勢五万は総大将『皇甫嵩』を筆頭に、将軍『袁紹』、『蔵洪』、『劉岱』、『盧植』率いる五つの軍勢が『鄴』城に同時に攻めかかった。

 数多の兵の死体を踏み台にして城攻めを強攻した官軍は8月下旬『鄴』を制圧、勝利に狂った官軍による略奪行為で城内は阿鼻叫喚の地獄と化したという。特に凄まじい強奪を行ったのは『袁紹』軍で黄巾党でも行わないような乱暴狼藉を将兵に許したようだ。略奪行為の黙認、それは『袁紹』が自腹を切らずに済む将兵への報奨と同じであった。『盧植』はその行為を非常に嫌悪して自らが率いる軍勢を城外の離れた場所に移したとも伝令は伝えた。

 「盧師父が黄巾討伐の大功をあげられたのかご無事で何より、それにしても官軍が乱暴狼藉を働くとは・・・」

 劉備は少年の頃、『盧植』に師事していたことがあり、伝令から『盧植』の功績を聞いて天にその無事を心から感謝した。

 そして核心の黄巾党首魁張角の末路については、『袁紹』勢の副将『曹操』の一隊に捕らえられ、拷問にかけられた末に、木に吊され屍を烏に啄まれるままにされたという。

 伝令から全ての報告を聞いた劉備は伝え聞く情報を深く洞察し嘆息した。どうやら伝令は官軍『袁紹』勢の副将『曹操』がその功績を誇大に喧伝するため華北全土に放ったものらしかった。喜びと悲しみが相半ばする複雑な心境に劉備は苦しむ。

 大黒柱を失った黄巾党は張角の弟、地公将軍『張宝』が後継者になった。

用語説明

『冀州』・・・ 漢代中国の十四に分かたれた行政区分のうちの黄河北方の州。河北と称される地域をいう。冀州の都城は南皮、中山、鉅鹿、甘陵、鄴、平原。州都は鄴。

『鄴』・・・ 冀州の都城のーつで冀州の州都。陳留の北、濮陽の北西、南皮の南西、鉅鹿の南、甘陵の西、河内の北東、上党の東にある。城塞都市で河北の最重要軍事拠点。

『南皮』・・・ 冀州の都城のーつ。北平の南西、薊の南東、中山の東、鉅鹿の東北東、甘陵の北東、晋陽の東、平原の北。後漢から三国時代の華北における重要な都市。

『雲梯』・・・ 城壁を乗り越えるため、梯子を掛ける為の攻城兵器のーつ。台車に梯子を備え付け城壁に取り付けさせて兵士を城壁に送り込む。

『衝車』・・・ 城門や城壁を破壊するため、丸太を衝突させる為の攻城兵器のーつ。台車に丸太を備え付け城門や城壁に衝突させて破壊する。

『攻城兵器』・・・ 城攻めにおいて、城郭や城門を破壊、突破するための大型装置。 城壁に梯子をかける雲梯、城門を破壊するための衝車など。

『孫子』・・・ 春秋戦国時代の兵法家である孫子または孫子が著した兵法書のこと。孫子謀攻篇には「故に上兵は謀を伐つ(計略を用いる)。其の次は交を伐つ(外交を用いる)。其の次は兵を伐つ(戦闘を行う)。其の下は城を攻む(城攻めを行う)。攻城の法は已むを得ざるが為めなり。・・・」と記されている。

『河間』・・・ 薊と南皮と中山への三つの道が交差する要衝の集落。都城に従属させれば二万の民が増加することになる。

『侍中』・・・ 主の側に侍して、主の様々な命令を代行する執事のような家臣または役職。

『勝敗は兵家の常』・・・ 戦の勝敗は軍人として常に覚悟をすべきもので、勝っても驕らず負けても挫けてはならない。敗北という結果を真摯に受け止めるための常套句。

『軍師』・・・ 軍事・政治的に主君を支え様々な献策を立案する参謀のこと。

『常山』・・・ 中山と鉅鹿の中間に位置する冀州西北にある要衝の集落。都城に従属させれば農業の収穫量が増加することになる。

『簡雍』・・・ 太守劉焉に仕えている若い文官。

『鉅鹿』・・・ 冀州の都城のーつ。中山の南、南皮の南西、甘陵の北西、晋陽の東、鄴の北。黄巾党の首魁張角の出身地であり、その本拠地となっている。

『都督』・・・ 軍の総司令官のような官職。広域に跨がって複数の都市を統括し、独自の政策が実行可能となる軍団を組織することができる。二品官から就任が可能。

『皇甫嵩』・・・ 官軍の都督で対黄巾党鎮圧戦の総司令官。

『管亥』・・・ 黄巾党の頭目の一人。武人。

『袁紹』・・・ 対黄巾党鎮圧戦の一軍を率いる将軍。名門袁家出身の御曹司。

『蔵洪』・・・ 対黄巾党鎮圧戦の一軍を率いる将軍。

『劉岱』・・・ 対黄巾党鎮圧戦の一軍を率いる将軍。

『盧植』・・・ 対黄巾党鎮圧戦の一軍を率いる将軍で、少年時代の劉備を教え導いた師父。病の静養の為に官職を辞し、故郷の幽州で隠棲していた盧植に、劉備の叔父が自分の子供と一緒に劉備を預けて学ばせていた。文官としても大変有能で公明正大な儒学の大家でもある。黄巾の乱を鎮圧するため高い能力と名声を買われて朝廷に招聘されたが、腐りきった外戚や宦官には忌み嫌われている。

『曹操』・・・ 袁紹の副将で鄴攻城戦で最も功績を上げたとされる人物。沛国の豪族曹家出身の若き将校らしい。

『張宝』・・・ 黄巾党の首魁張角の弟の一人。地公将軍を自称しており、張角亡きあとの黄巾党を率いる。張角に伝授され、妖術を使うと噂されている。

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