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三国志13 蜀志劉備伝 #9

江東の虎

184年10月

 冀州の都城『平原』を解放した劉備勢の将兵は、民衆から大歓待を受けていた。『平原』で略奪を繰り返していた賊将『張燕』は劉備達が『甘陵』へ追い払った。また指導者『張角』を失った黄巾の残党は暫くは守勢にならざるを得ない。冀州一帯には束の間の平穏が訪れていた。この間に、連戦に次ぐ連戦を戦い抜いた将兵達へ十分な休息を与えなくてはと劉備は考えていた。

 10月2日、劉備は戦死者を含めた将兵に公平に恩賞を配り終えると、『平原』にて劉備勢の解散を宣言した。5月に幽州の都城『薊』を出陣したときは総勢二万だった。初陣から野戦、攻城戦、防衛戦をくぐり抜け、生き残った歴戦の強者は一万七千、軽傷者は五百、勇敢に戦って戦死した者は二千五百だった。戦場で散っていった者達の想いを無駄にしてはならない、劉備、関羽、張飛は彼らへの弔いに別れの杯を傾けた。

 「兄者ぁ、俺は離れたくねぇよ」

 「翼徳、まだ黄巾の乱は終わっておらん、次の鎮圧戦にて再会できよう」

 「雲長、翼徳、戦場で再会するまで十分に英気を養うのだぞ」

 劉備、関羽、張飛の三義兄弟は再会を約してそれぞれの任地へ赴く。

 さて、中原を俯瞰してみると黄巾党は指導者『張角』を失ったとはいえ、依然強大な勢力を維持している。『張角』の跡を継いだ『地公将軍』『張宝』は、官軍に惨殺された長兄『張角』の復讐に燃え、漢の帝都洛陽に攻め寄せようとしていた。
 劉備は次の大規模な戦闘は、黄河の南岸で勃発すると予測していた。その際、劉備率いる軍勢が黄河を渡河して南進するとすれば、南方の官軍勢力との連携は不可欠に思えた。

 まず協力者として劉備が思い浮かべたのは、『徐州』の都城『下邳』を拠点にし、黄巾党の討伐に功績大との威名轟く英傑、『徐州刺史』の『孫堅文台』だった。
 巷の噂によると、『孫堅』は春秋戦国時代の兵法家『孫子』の末裔で、十七才で賊を討伐したのを手始めに、各地で武功を積み重ね、『江東の虎』と畏れられているという。

 「孫子の末裔か、如何なる英傑かこの目で確かめてみるか」

 太守劉焉に『孫堅』との修交を提案した劉備は、『平原』の城門を出ると南方の『徐州』へ馬を走らせた。

 10月13日、『下邳』に到着した劉備は客舎で正装した後、『孫堅』の政庁へ赴く。

 「我等の大義は同じ、心ずや友好を結べよう」

 文武の諸官が居並ぶ中を、劉備は堂々と前に進む。

 「劉玄徳、孫徐州様に拝謁致します。初めて御意を得て光栄の至り。我が主、薊太守劉焉の命を奉じて参上致しました。」

 「ほう、劉将軍の勇名は遠くこの下邳にまで轟いておりますぞ。さて、幽州の劉焉殿は儂に何をお望みかな」

 「孫徐州様と友好を結び、親善を深めたいと我が主は望んでおります」

 「良かろう、丁度我が軍も孤立しておった所よ。歓迎しよう玄徳殿。暫く下邳に留まるがよい、共に今後のことを計ろうではないか」

 その後、劉備は連日『孫堅』からの歓待を受け、劉焉軍と孫堅軍に戦略的にどのような連携が可能なのか、胸襟を開いて話し合いを重ねることができた。

 深く知れば知る程『孫堅』殿はまさに英傑といって間違いない。智勇兼備、全身から発せられる強烈な威風、『徐州』の勇猛な将兵が忠誠を尽くすのが良くわかる。やはりこの英傑と友好関係を結ぶのが最善の一手だったと劉備は直感した。

 10月の終わり、日も暮れかけようとする頃、『下邳』城外に太守劉焉の伝令が到着、迎えに出た劉備に『牙門将軍』の爵位を授与すると伝えた。

 「劉玄徳、謹んでお受け致します。使者よ、劉焉様に宜しくお伝え下され」

 『牙門将軍』に任じられたことで、劉備は更に多くの将兵を指揮することが出来るようになり、またその武威も高まった。

用語説明

『平原』・・・ 冀州の都城のーつ。南皮の南に位置する。賊将張燕の度重なる略奪に、太守や官僚が逃亡。権力の空白地となっていた。劉備が賊将張燕を追い払い、劉焉の勢力下に置いたことで、住民達は劉備に感謝している。

『張燕』・・・ 黄巾党の頭目。もとは黒山賊という盗賊の頭目で、黄巾の乱に呼応して黄巾党に参入。武勇に優れ騎馬隊の扱い長ける。性格は猪突猛進で強欲。平原で略奪行為を繰り返していた悪党。劉備に追い払われて甘陵に逃げ帰った。

『甘陵』・・・ 冀州の都城のーつ。南皮の南西に位置する。賊将張燕の根城。

『張角』・・・ 黄巾党の首魁で太平道の創始者。天公将軍と自称し漢朝の転覆を画策、太平道の信徒数十万人を扇動して黄巾の乱を起こさせる。官軍に捕らえられ処刑された。弟の張宝が後継者となった。

『薊』・・・ 幽州の都城の一つで幽州の州都。北平の西、南皮の北西、中山の北東。現在の北京にあったと推定される。

『徐州』・・・ 漢代中国の十四に分かたれた行政区分のうちの東方の州。徐州の都城は下邳、琅琊、広陵。

『下邳』・・・ 徐州の都城の一つで徐州の州都。

『孫堅文台』・・・ 姓名は孫堅、字は文台。揚州呉郡の人。孫子の末裔を自称し、十代での賊討伐を切っ掛けに頭角を表す。若くして出世し、現在は徐州刺史。統率力、武勇に優れ、知勇兼備の英傑である。性格は豪胆。多くの兵士を従える威風を全身から発している。戦においては獅子奮迅の働き振りで自部隊の攻撃や士気を極限まで高め、周囲の部隊に兵撃を与える戦術を使う。武器は名品古錠刀。孫策、孫権の父。

『孫子』・・・ 春秋戦国時代の兵法家である孫子または孫子が著した兵法書のこと。孫堅は孫子の末裔と自称している。

『江東の虎』 ・・・ 孫堅の渾名。孫堅の武名を表す。

『牙門将軍』 ・・・ 将軍の官職のひとつ。牙門とは本陣を守る門、転じて本陣のこと。就任すれば兵の指揮可能数と武将の武威が上昇する。

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