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幼少期の記憶その1

今日は私が覚えている限りの幼い日の思い出とそれに対して考えていたこと・感じていたことを書き出していこうと思います。

タイトルの《その1》というのは話が長くなることやこの先もぽろぽろ思い出して「あーこんなこと思っていたな」「あの頃はこんな風に思っていたけど、実はこうだったのかも」ということが出てきそうなので《その1》にしておきます。

また基本情報として母の信仰している新興宗教の知識や教義が出てきますが、あくまで私の記憶なので教義の見解が違ったり宗教批判をする目的はありませんのであしからず。


・姉妹と呼ばれる女性


私の1番古い記憶は弟が生まれる前の3歳前後。

よく晴れた春の日に広い原っぱで2学年違いの兄と一緒にお弁当を食べた。
あれはたぶん家の最寄りのバス停から2つ目のバス停で降りて少し歩いた場所。
滑り台やブランコもなかったので公園ではなくただの空き地だった。
小さい子どもだった兄と私には遊び場として十分な広さだったので連れてきてくれたのだと思う。お弁当はどこで買ったのか覚えていないが、ちくわの磯辺揚げが乗っているのり弁だった。

連れてきてくれたのは母でも祖母でもない、《姉妹》と呼ばれる女性。
年齢としては母より少し年上の独身。
母が弟の出産のため入院していた間私たちの面倒をときどき見にきてくれていたようだ。
その女性は基本優しいが、兄が持っていた恐竜やロボットのおもちゃを「捨てなさい」とよく言った。宗教の教義の中に「戦いを学ばない」というものがあるが、ロボットはまぁわかるにしてもなぜ恐竜まで捨てさせられたのか未だ謎である。
その女性と顔を合わせたのはいつも家だった記憶なのでその頃はまだバプテスマを受けるどころか王国会館にも行っていなかったのかもしれないが、母曰く私と弟は「お腹の中にいた時から真理を学んでいた」そうで、私が産まれた頃にはもうすでにどっぷり教義にハマっていたのだと思う。


・最高の教育

私が3歳を過ぎ弟も産まれてしばらくすると母は免許を取り奉仕活動の傍らヤクルトの配達を始め、毎日私は母の運転する車に乗っていろんな場所へ行った。
いろんな所と言っても配達先へは母1人で行ってしまうので車から降りることはなくただヤクルトと揺られて外の景色を眺めて乗っているだけだった。
奉仕活動にいくと《姉妹たち》に「よく来たね」「えらいね」と褒めてもらえたけど、今思えばそれは私への言葉ではなく私をその宗教の真理に基づき躾けている母への賞賛だったのだろう。
自分から「行きたい」と言ったのかはたまた連れて行かれていたのかは記憶にないが、常に暇だったのは確かで家にいるよりマシくらいに思っていた。

この時兄は一緒にいなかったので幼稚園に行っていたか、休みの日もたぶん祖母に止められていたんだと思う。

我が家は〇〇家の本家で父は本家の長男で兄もそれを受け継ぐため母の信仰に付き合わせることを祖母が阻止したかったと思われる。
だから兄は兄弟の中で唯一幼児教育を受けているのだけど、母曰く「神に背く行事ばかりで行かせたくなかった」そうで私と弟は就学前まで家庭保育で常に母に帯同していた。
兄を迎えにいった先で見る幼稚園の楽しそうな遊具や教室のにぎやかな飾りが目に入り、楽しそうで羨ましくてたまらなかったのを今でも覚えている。


母は真理を学ぶことこそが最高の教育だと思っていたし、今も思っているだろう。聖書研究や奉仕活動以外に家庭保育で母から何か教わった記憶はない。
奉仕活動のない時は1人で与えられた学研のドリルをやり、飽きたら絵を描いたり塗り絵をして過ごしていた。
近所に年の近い子や同い年の子もいたが幼稚園に行っているので遊ぶ機会も少なく、彼女たちの遊びは幼稚園で教わる折り紙やあやとり・手遊びなので私の知らないものばかりで教えてもらっても上手にできないので呆れられていた。
この時あたりから自分の存在が浮いていると気づき始めた。


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