ストックホルム症候群

別れの季節。
出会いの季節。

そよ風が鼻をくすぐる。
ソファの上で、ぐったりと目覚める

つけられたニュースキャスターに、ぼんやりと耳を澄ませた。
時刻は7:34,気温17°,湿度72%
降水確率0%,晴れ続き…
順風満帆とか、幸せとかの単語が似合う天気。

久しぶりに感じた。新鮮だ。
日曜の午前、爽やかな香りがする。

ふんわり靡いている、淡紅色の薄いカーテン
窓いっぱいに眩しく溢れ出す、木漏れ日のような朝日
あたたかい、ほっかりとした炊飯器の蒸気

そして、可愛くて愛おしい君の…

「いちのせちゃん!おーはーよー!」
一気に目が覚める。
「……おはよう。しのちゃん。」
「もう!お布団で寝ないと、おかぜひいちゃうよ~」
はぁ…早朝に起きるのが久しぶりすぎて、寝てしまっていたみたい。
「ごめん。」
「あやまらないで、わたしのために早起きしてくれたんでしょ!」

「よしよし、いちのせちゃん、ありがとう!」
しのちゃんは、そう言ってわたしの頭を撫でてくれた。
ほわほわ、ぽかぽか、ずっと、やさしく。

「しのちゃん…」
静かに、ぴかぴかに満たされていくのを感じる。
しあわせすぎて…どうしよう……

私は、たまらなくなって、しのちゃんを思いっきりぎゅーっと抱きしめた
君を、君だけを一身に浴びたくて。

この朝は、小春日和だった。

「いただきまーす」
「いただきまーす!」
ふかふかの白ご飯と、あつあつの味噌汁を一緒にいただく。食卓には、ほうれん草のお浸しが鮮やかな彩りを加えていた。
お味噌汁をひと口すする。しのちゃんはずっと美味しそうに朝ごはんを食べていた。

「あれ?いちのせちゃん、食べるのもうおわり?」
箸をぴたりと止めて、しのちゃんが言う。
「ごめんね……朝は食欲なくって……」
申し訳なさそうに言うと、君は呆れたようにため息をつく。
「あのね~朝はね!ちゃんと!あさごはん食べるんだよ!」
「うん。わかってる。でも、ほら……」
「もう!いちのせちゃん!」
「はい……」
私は、とても弱い人間だ。君には弱いところを見せたくなくて、強がるけれど、こうやってふいに叱られると素直に言うことを聞いてしまう。

「あさごはん、いっしょに食べよ!冷めちゃったらもったいないよ」
「うん。そうだね。」
そう言って私はお箸を進める。しのちゃんは満足そうに、うんうんと頷いた。そしてまた美味しそうにご飯を頬張るのだった。

「ごちそうさま。」
「ごちそうさま!」
朝食を食べ終わった後、私は食器を片付ける。
しのちゃん、米粒ひとつ残さず食べてくれたんだ…なんだか嬉しい。
「いちのせちゃーん!おてつだいする!」
そう言ってしのちゃんがキッチンに入ってくる。
「え、いいよ。大丈夫。」
「やだー!いちのせちゃんひとりじゃたいへんでしょ!」
「…じゃあ、お願いしようかな。」
しのちゃんは、せっせとお皿を洗ったり、洗い終わったお皿を拭いてくれた。小さな手で丁寧に。そして鼻歌を歌いながら……
そんな姿はほんとうに愛らしくて、ずっと見ていたかった。
でも、仕事を途中で放棄するのもいけないと思って、私も作業を進めた。

「いたっ!」
私の身体から、冷や汗がぶわっと吹き出した。
「しのちゃん!?大丈夫?!!?!」
「うぅ……て、手きれちゃった…」
私は皿を投げ出す勢いで手を止め、急いでドレッサーから保護バンを取り出す。しのちゃんの前に膝をついた。
「手見せて。」
そういって、ちいさい、ちいさい薬指に絆創膏を貼った。
「しのちゃん、私のせいで……」
「あやまんないで!私が手伝いたくて手伝ったの!」
「それに、いちのせちゃんが貼ってくれたばんそうこう、まるで指輪みたい!」
「あっはは…もう~おおげさすぎるよ。…指、痛い?もうお皿洗いやめる?」
「できるよ!」
しのちゃんは太陽のような笑みを取り戻し、作業に戻った。

しのちゃんは無邪気で可愛いなぁ、と思うと同時に、心底ほっとした。
笑顔になってくれてよかった。嫌われなくてよかった。

私の大切な人が、私のせいで苦しむ姿なんてもう見たくない。

「……よしっ!終わったぁ~!」
しのちゃんは腰に手を当て、誇らしげにはにかんだ。
「ありがとう!お疲れ様。えらいえらい」
そう言って頭を撫でると、しのちゃんは嬉しそうにえへへと笑ってくれた。

「じゃ、しのちゃんはおうちでお留守番しててね」
「いちのせちゃん、はやくかえってきてね……?」
しのちゃんは、あわあわと上目遣いで見つめてきた。
透き通った空色…思わず息を呑んでしまった。
「大丈夫、絶対に帰ってくるから。」
「じゃあ、いってきますのぎゅーしよ!」
「うん、しよっか。」

深い抱擁。
それは祈りにも、誓いにも想えた。

この世界を守るためには、金が必要だ。
しのちゃんが綺麗で居続けるために、しのちゃんが脅かされない場所が要る。

しのちゃんがいるから生きている。しのちゃんのことしか考えたくない。
しのちゃんは、羽虫が縋る最期の燈のようだ。

しのちゃんと遠くへ行きたい。
醜く汚い大人の存在なんて忘れて、しのちゃんと……

もっと

もっと

遠くへ

「いってきます」
「いってらっしゃ~い!」




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