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映画『ムーンライト』 太陽と月と分人

人種の問題、貧困の問題、性的マイノリティの問題、ドラッグの問題など、社会問題を凝縮した映画のように見えるけど、そういう視点で見ていたらどうしてもすとんと落ちなかった。
もう一度視聴して、勝手な解釈をしてみる。
好きなアーティストや作品などを自分勝手に解釈して喜んだり勇気づけられたりする権利をファンは有する、と思うので、映画も勝手に解釈して肥やしにしよう。

太陽

太陽の光はすべての存在に色を与えるけど、暗闇からいきなり太陽の光の下に飛び出すと、あまりに強いコントラストによって一瞬世界が白と黒に分かれているかのように錯覚する。
常に暗闇にいる者にとって、世界は白と黒に二分されて見えるのかも知れない。
と、この映画の冒頭、いじめっ子たちに追いかけられてアパートの廃墟に逃げ込んだ主人公のシャロンを、フアンが助け出すシーンで思った。

このシーンで、シャロンは部屋に差し込む日差しを避けるように、陰の中に身を隠している。
シャロンの視点では、世界は白と黒、明と暗、強いものと弱いものに二分されている。
そして、シャロンは、きっと自分のことを暗くて弱い者たちの世界の住人だと感じている。

月明かりの下では、白と黒の境界が曖昧になる。色がはっきりとしなくなる。
「色」が、視覚的な要素を表すのは、仏教的で日本的な感覚なのか、万国共通なのか?はわからない。けど、色のない世界でこそ人の本来の姿が見える、という感覚は「狼男」などの海外の文学作品にも多いような気がするから、おそらく日本だけではないだろう。

フアンは、麻薬の売人としてのし上がった人物らしいので、暗くて強い世界の住人だが、シャロンを助けシャロンになにかを与えようとしている。

フアンがシャロンを海へ連れていったときの印象的なセリフを書き起こしておく。

−−−フアンが泳ぎを教えているシーン−−−
感じるか?
(お前=シャロンは)地球の真ん中にいる。

−−−海から上がってから−−−
オレもガキの頃はお前みたいなチビで、月が出ると裸足で走り回ってた。
あるとき、ある老婆のそばをバカやって叫びながら走り回ってた。
老女はオレをつかまえてこう言った、「月明かりを浴びて走り回ると、黒人の子が青く見える。ブルーだよ。お前をこう呼ぶ、『ブルー』。」
自分の道は、自分で決めろよ。
周りに決めさせるな。

この時点でのフアンは暗くて強い世界の住人だが、子供の頃はシャロンと同じように小さくて弱い、つまり暗くて弱い世界の住人だったらしい。
暗くて弱い世界の住人は、冒頭のシャロンのように、明るくて強い世界の住人に振り回され、振る舞いや生き方まで強制される。
弱い世界の住人だったフアンも、月明かりの下では「色」が弱まるからこそ自分らしく振る舞えた。
その様子をさして、老婆は「青く見える」と言った。

つまり、「青」は、「色」に囚われないその人そのものを指す言葉なんだろう。

分人

ドラッグで身を滅ぼしつつある母親と、暴力で支配する同級生、貧困、そして薄っすらと違和感を持ち始めている自分の性的な感覚。
いずれもが、シャロンをして暗くて弱い住人として生きざるを得ないと感じさせているのだろう。

一方、同じような暗くて弱い世界の住人だったフアンは、ドラッグの売人という生き方を選ぶことで暗くて強い世界の住人になった。
でも、あのときの老婆に言われたように、自分を青く照らしてくれる月があるのであれば、明るさや強弱に左右されない、本当の自分として生きられるのかも知れない。そんな思いがあったのかなかったのか、そんなことは描かれてはいないけど、いじめられっ子に追いかけられていたシャロンに手を差し伸べる彼の心情を想像すれば、シャロンに自分にとっての月明かりを感じたのではないか、と想像している。

シャロンに泳ぎを教えるシーンでは、体や服装に(海の中だから当然裸なので)色はないけど、空と海の淡い青を纏ったフアンの姿が印象的で、昼間だけどシャロンの月明かりに照らされているように見えてしかたなかった。

高校生?になり、学校でヤバいクラスメートから酷い暴力を受けた。
正確に言えば、ヤバいクラスメートたちが醸成する空気に逆らえなかったシャロンの親友(であり相思相愛の間柄である)ケヴィンが、シャロンを殴る羽目になった。
そのあと、それまでの「暗くて弱い」自分を捨てて、残念ながら暴力的ではあるが自分の意志を全面に出してそのクラスメートに報復をしに行くシーンで、シャロンは淡い青のシャツに着替えている。
周囲に振り回されてたまるもんか、という負のエネルギーの現れであると同時に、ケヴィンがいるからこそ強くなろうと決意できた、つまりシャロンにとっての月明かりはケヴィンだ、ということを表しているようにも感じられた。

大人になったシャロンは、フアンと同じような売人になっていた。
母親は、どうやら(ドラッグの)更生施設のようなところで暮らしているようだ。
おそらく、ずいぶん長い間、施設にいる母親を訪ねることはなかったのではないか?と思われる。
ある日、あの日以来会っていないケヴィンから電話がかかってきて、「お前のことを思い出してな。実は今、料理人をやっている。食べに来てくれ。」と誘われる。
その電話がきっかけなのかどうかわからないけど、シャロンは施設にいる母親に会いに行く。
シャロンに対して母親は、「まだ麻薬の売人をやっているのか?」と心配そうに尋ねる。
「あんたがオレに説教するってのか?」と怒りをあらわにするシャロンに対して母親は、「愛を与えるべきときに与えられなかった。ごめんね。」と何度も謝罪の言葉を口にする。
シャロンは、母親を抱きしめる。母親にとっての月明かりは、シャロンだったんだろうなぁ。
施設にいる母親は、淡い青に見えるシャツを着ていた。

シャロンは、ケヴィンの営むレストランを訪れる。
お互いが、あの日以来のお互いの状況を伝え合う。
最後は、シャロンがケヴィンの肩に寄りかかり、ケヴィンがシャロンの肩を抱き寄せているシーンで映画は終わり、その後二人がどうなるのか?は描かれていない。
ただ、最後に画面に映るのは、月明かりの下の海岸にるシャロンの幼い頃の姿、フアンに泳ぎを教えられていた頃の姿で、振り返るシャロンの肌は青く見える。

「青」は、自分がいちばん大切にしたい自分の「分人」を表すメタファーなのかな、と思いながら、この映画を観た。その視点で言えば、「月」は自分がいちばん大切にしたい自分になれるような人、それは親子の間柄の人かもしれないし友人や恋人かもしれないし、フアンにとってのシャロンのような(単語としては間柄を表す語句のない)人間関係だったりするのかな、と思っている。

太陽のような強烈な光と重力を持つモノに支配されていると、世界が断絶されたものに見えるし、その世界から(重力圏から)抜け出せないんじゃないか?と思ってしまうし、それは確かにその通りだ、と言えなくもない思う。
ただ、そんな太陽の重力圏にあったとしても、月は地球の重力の影響で地球の周りを回っていて、その光によって地球上のぼくたちが青く照らされている。地球は自転によって(一時的ではあっても)太陽のない世界を作り出すことができている。
太陽の光は、暗闇から見上げれば世界を明と暗に分けているかもしれないけど、明るいところに出てみれば世界に色を生み出しており、色はグラデーションであって目を凝らせば断絶はどこにもないわけだ。

このnoteの最初に書いたように、人種の問題、貧困の問題、性的マイノリティの問題、ドラッグの問題など、社会問題が凝縮されているので、最初はそれら諸問題へのメッセージが読み取られるべき映画なのかな、と思って観たけど、(それはそれでそうなんだろうけど、日本で生まれ育って、周囲にいる人、いた人の99%くらいは日本人だった)ぼくにはこの映画を観ただけでそれらの諸問題への思いを馳せるのは、なかなか難しい。
でも、自分にとって月明かりとなっている人は誰だろう?はたまた、自分は誰かの月明かりになっているのだろうか?などと考える契機になったのは間違いない。

ふと浮かんだのは、Baha Menの演奏で、♫Dancing in The Moonlight だったのは、ベタすぎかしら。


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