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テラヤマキャバレーを観てきたよ~

ご覧になってくださった方々こんにちは。こんばんは。DDのミュージカル観劇日記、今回はテラヤマキャバレー編です。本当は、この日宝塚でアルカンシェルを観劇予定でしたが、公演が中止になったため急遽観劇を決めました。男子大学生から観た感想をつらつらと書いていきます。是非ご覧くださいませ~。


寺山修司の世界観

感想を述べる前にお断りがあります。自分は寺山修司に関してほぼ何も知らない状態で観劇しています。そのため、劇中にから寺山修司のエッセンスが感じれる演出は多くあったはずですが、気づけていないでしょう。ある意味フラットに演劇を観ることができたと思うため、良かったのかもしれませんね。
では、気を取り直して、感想を書いていきます。テラヤマキャバレーは、寺山修司の脳内世界で繰り広げられる作品です。正直今まで観たことがない系統の作品で、浮かんだことを整理することがなかなか骨の折れる作業になっています。今回は作中における死の存在について、そして現代の若者と寺山修司が生きた時代の違いについて感じたことの二つを主軸に書いていこうと思います。

テラヤマキャバレーの中にいる死

今回死役は宝塚歌劇団専科の凪七瑠海さんでした。今までも様々な作品で死を擬人化し、登場させる作品は数多くあると思います。しかしテラヤマキャバレーの死は、ほかの作品にいる死とは異なる立ち位置にいました。死が他の登場人物とほぼ同等の立ち位置に置かれ、あえて人間性を持たせている点です。例えば、エリザベートのトートは、死としての存在感が強く、絶対的で畏怖の対象であったと思います。その上でエリザベートを自分のものに(死の世界に連れていく)するため、周囲の人々も不幸にして絶望させるのが目的でした。テラヤマキャバレーの死も、最初は死ぬ人を連れていく役割に徹しており、一歩引いて客観的に脚本の完成を待っている感覚はありました。しかし、時間の経過とともに人のように笑い、他者を気にかけ、葛藤するなど死がより人間臭く表現されていました。最終的には死が寺山修司を連れていくこと自体をためらうという、死という概念を超越した行動がありました。死をあえて絶対的かつ不可逆的で恐怖の存在として表現しない。ここに個人的には面白さを感じました。死が冷酷なものでなく、むしろ死ぬ直前の人に寄り添っているような感覚を覚えるほどに。死をも感動させ心を動かさせる。ここに寺山修司の偉大さを感じました。もしかしたら、テラヤマキャバレーの世界観に絶対的な存在はないのかもしれません。もし、絶対的なものが存在していたら、寺山修司の脳内で作られる作品は後世なで語り継がれるものにならなかったのかも。。なんて考えています。死という存在も人間的にしてしまう寺山修司の脳内は不思議な世界で成り立っていたのですね。そして、もうひとつ印象的だった死のセリフが『死とは消しゴムのようなもので、人が生きて鉛筆で書いた人生を消してしまう』ような趣旨の発言です。これは、圧倒的に演目の中で一番心に残った言葉です。人間は一人ひとり違った思想を持ち、違った人生を歩みます。もし、人が生きた行程や出来事を鉛筆で紙に書いたなら、それは紙に書いた人の人生を端的に示すと同時に証にもなるでしょう。しかし人には等しく死が訪れます。人は死んでしまうとその人の存在がなくなってしまい、二度と戻ってきません。死が人の人生を消し去る。これを鉛筆と消しゴムという関係で表現したことは秀逸です。その上『消しゴムは、文字を消すことはできるが新たなものを生み出すことができない。』この言葉の重みはすごいです。人は生きている間、新しい経験を日々積むことができます。しかし、死はそのあと何も生み出したり経験することはできない。要するに無なのです。消しゴムで消してしまった後に文字を見ることができず、白紙に戻ってしまいます。死という概念をここまで端的かつ本質的な比喩で表現できていたのは、脚本家の実力ではないでしょうか。

蚊が持つ雰囲気を変える力

もう一人、個性的なキャラクター達の中で存在感を放っていた登場人物がいます。それは伊礼彼方さん演じる蚊です。死以外の人は寺山修司を尊敬し、寺山修司によって名前を付けられました。しかし彼は蚊で、唯一キャバレーの外部から来た存在かつ、その蚊が持つ個性によって場を持って行っていました。伊礼さんの観客を惹きつける演技、拍手しかなかったです。あそこまで中性的だが大人の色香を持ち男のカッコよさも兼ね備えた演技は感動でしたね。

テラヤマキャバレーで描かれた現代の若者像

この作品でもう一つ触れておきたいことがあります。劇中で寺山修司は死からもらったマッチの一本を使い、2024年の2月14日の新宿(おそらく歌舞伎町)の世界に行きます。そこで現代の若者の姿を見て寺山修司は驚愕し、一種の絶望感を覚える場面です。今をときめく男子大学生の自分がこの場面に触れない訳にはいかないでしょう。現代の若者はZ世代と言われ、SNS全盛期にそれを使うことが当たり前の価値観の元生きています。価値観の多様性が認められ、それを尊重しないといけない時代とZ世代はマッチし、上の世代では起こらなかった事象も発生しています。おそらく、そのことに関して危機感を持つ方も一定数いるのではないでしょうか。このような若者の行動に対して大学生の自分が言えることは、大衆の価値観は日々変容するため、時代に合わせることも重要だが、個人主義が広まり、完璧以外認めない社会の流れには警鐘を鳴らしたいです。この評論では、自分の思想をすべて述べると終わる気がしないため、割愛させていただきますが、テラヤマキャバレーで表現された現代のZ世代のペルソナは半分あっていて、半分間違いではないかと思います。合っている点は、Z世代は言葉の価値が大きく以前に比べて下がり、肉体の価値が上昇していることです。劇中でこのような趣旨の発言があった時、まさにその通りと感じました。𝐈𝐧𝐬𝐭𝐚𝐠𝐫𝐚𝐦やBeRealなど、言葉ではなく、画像や人物そのものが主軸となるSNSが全盛期を迎えている所からも感じ取ることはできます。個人的には言葉を大事にしていきたいと考えていますが、流れはそうではないのかもしれません。間違っていると言うと語弊があるかもしれませんが、現代のZ世代はそこまで腐敗していないとも、同時に考えています。SNSが広まって情報化社会になった今、簡単に情報にアクセスできます。そこでえる情報はアイコニックなものが多くなる傾向にあるでしょう。どの時代もある程度普通から外れた行動をする人はいたでしょうし、Z世代だけがあった問題でも無いと思います。その中でも、できる限りのケアや問題解決への努力を続けるべきだと考えています。

まとめ

今回は今まで観てきた演目とは異なる傾向の演劇で非常に面白かったです。アングラ劇のよさも今回で理解することが出来たような気がします。それではまた次回に〜。

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