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なぜ人はチームを応援してしまうのか。

こんにちは。アーティストのノブです。

今回のテーマの考察を述べたいと思います。


最近で言うとWBCですよね?
WBCで日本を応援する。
ワールドカップで日本を応援するとか。
今でしたら、プロ野球が始まっていますので、
プロ野球のチームを応援する、というものがあります。

野球には興味がない、サッカーには興味がないから、そんなことは知らないし、私は応援してないよという人もいるでしょう。
でも、これだけの多くの人が応援してる。
それが仕事となって、エンターテイメントとなって観客が何万人もその日に集まるというのは、
人として何か構造的に あるのではないかなと思ったので、
それを述べたいと思います。
そしてそれは日本だけなく、世界でもワールドカップで全世界が盛り上がるように世界的に共通しているものだとも言えます。

自分自身、野球の好きなチームをありますので応援してます。

だからこそ、なんで応援しちゃうのかな?ってこないだ、ふと思ったんですね。
時間も取られるし、試合を見ないように自分はしてるんですね。
(だから、本物のファンとは言えないんですけれども…)
でも、やっぱ気になるんですよ。試合結果をいちいち見ちゃうんですね。
今どうなってんの?今どうなってんだろう?って。

一応承認欲求とか、そういったものが関係してるのかなと
いろんなことを考えたんですけども
自分の中でちょっとしっくり来たものが1つあったのでそれを基に話そうかなと思ってます。

それは道具の一体化です

それのどこが関係するかのかと思った方はもう少し話を聞いてください。
関係がありますから。

皆さんも経験あるとは思うんですけど、お気に入りのペンとか道具があったりしませんか?
道具じゃなくてもいいです。
それは ぬいぐるみとかでもいいです。
子供の時すごく気に入っててずっと持ち歩いてたぬいぐるみ。
大人でも子供の頃からずっと持ってるぬいぐるみをいまだに持ち続けてる人とかっていたりしますし。

大人でもずっと長年使ってるペンとか、そういったものを使ってる人ってたくさんいますよね?
その構造と一緒なんじゃないかなって思うんです。

有名な話だと野球のイチローさんが「道具を体の一部として使ってる」みたいな表現をしたことがあります。
でも、それって別にイチローさんに限らず、他の人もそうだと思うんですよ。
ペンを使ってる時は体の一部のように使うし
例えばそのペンが壊れたとか、 なくなったとか。
ペンだけじゃなくてもいいんですけども
自分のお気に入りの道具が壊れたってなった時に、
結構悲しくなるんですよね。
自分が使い込んで、いろいろと工夫してようやく出来上がったものだったら尚更また1からやり直さなきゃいけないとか、
そういったものもあって、結構落ち込んだりするんですよ。
でも、それと同じなんじゃないかなと思うんです。

それはあくまでペンとか道具に過ぎませんけども、
チームに関してはそれが心の一部になってるんじゃないかなって思うんですね。

道具もチームも外部にすぎません。
道具は自分で触っているから愛着がわくとか理解しやすいのですが、チームは"もの"ではないのでそういうのがわかりづらくなってるんです。

しかしそれらをデータとして捉えてみてはどうでしょうか?
 
じゃあ、なんで道具は体の一部になるんだろう?っていうのは
それを持って色々な動きをするわけで
そうすると、たくさんのデータが自分の体の中に入ってくるわけですよね?
こういう動きをしたらペンがこういう線になるとか。

それによって、いろんなデータ をインプットを繰り返して、正確にアウトプットできるようになってくると。
それって自分の体もそうですよね?
小さい時から、ずっとこの体で生きてきて、走るとか、歩くとか。
そういった感覚をまた消化してアウトプットしていく。
それと同じで、道具も大量のデータのインプットとアウトプットを繰り返し、それが一定のレベルになると、体の一部 として認識する部分があるんですよね。

チームもそうなんですよ。
チームのデータって何かっていうと、
例えば選手だったり、 監督、コーチの名前とか
もしくは、この選手はこういうプレーをするとか、あとは選手として結婚してて、こういう奥さんがいてとか、 なんとなく細かい情報まで入るようになるんですよね。
で、この選手は今怪我してて、今二軍でこんなトレーニングをしてるとか。
そういったものもどんどんどんどん入ってくる。
もちろん、その内部にいる人以上の情報はないですよ。
でも、ある程度のデータが自分の中に入ってくるだけで、
なんとなくそれが 体の一部として認識するんじゃないかと思うんですよ。
自分はこのチームのこの状況を知ってるとか。
だから、 チームの一員じゃないということがわかってても、
ある程度のデータが入っているから一定のレベルをデータ量を超えると、
心の一部として認識するんですよ。
ですから負けると腹立つし、悔しいし、不快になるし、勝てば楽しいし、いい気分になる。
もう自分の一部になってるんですよね。
というか、チーム関係者になっているわけです。

例えばサッカーとか 、野球に興味がない人、チームを応援ししない人っていうのはそもそもデータを入れようとも思わないし、データがないんですよね。
細かいデータも知らないし、その記録がどれだけすごいかもわからない。
だから、応援する気にもなれないし、何にも気にとめないんです。

もちろんにわかの人もいるんです。
例えば、ワールドカップだけとか。じゃあ、なんであの人たちはあそこで盛り上がるの?
そういう人たちはまた別のものです。
例えば、ルールを知らなくてもああいう皆と喜びを共有したりするのが好きだという人もいますし、今は好きなサッカーチームがなくても、ワールドカップというお祭りが好きという人もいます。

なのでそこはまた別のものだと思いますので省かせていただきます。

ただそうやってデータを入れれば入れるほど脳としてはそのチームに親近感を湧き、やがて心の一部、身体の一部として認識してしまうことが原因なのではないかと思っています。

最後までご拝読ありがとうございました。


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