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自由への大いなる飛躍 「出離」のパラドックス マチウ・リカール著 『幸福の探究』より

「出離」を禁欲主義や厳格な戒律と結びつけるべきではないと、「出離」のパラドックス(逆説)が明確にされることで、読者は自然と本章へ引き込まれていきます。そして、「利己主義、権力や所有の争奪戦、快楽への飽くなき欲求などの操り人形でいる自分に我慢するな」とも。

こうしたパラドックスの提示は、執行草舟氏の著書『生くる』にもあります。「無償」のパラドックスとして、「見返りを求める心を悪いと思うことはない」と。例えば、親が子を育てた恩義を押し売りすることは必然であるとしています。人間が頭で考え出した民主主義的理想論を下敷きとした建前を疑う「脱綺麗ごと」を両者は促しています。肩の荷がおりた感覚で、「そうそう」と頷きなが読み進めることができるのではないでしょうか。

では、「脱綺麗ごと」の行動をとは、どのようなものでしょうか。この点の表現について、マチウ・リカール氏は、キリスト教的思考に引きずられているように思います。「舵をしっかり握って自分の選んだ目的地に向けて航行すること」を綺麗ごとから解放され、心の自由さを堅持した行動としています。これは、キリスト教文化の常識である、「選択・自由・責任」のワンセットを前提とした思考に私には思えます。エデンの園を追放された人間は、選択の自由を得たが、その選択に対する責任を負うことになったことをキリスト教文化は所与としているからです。

この点、欧米哲学を超越している執行氏の行動に関する記述の方が、我々日本人は腑に落ちるはずです。「本音は、美しくないこと多いが、それがこの世の姿を示している。真実の姿の中で生きることが、最も美しい人生を創るものだと私は思う。」(『生くる』執行草船著)

親鸞聖人、清沢満之の思想に詳しい安冨歩氏は、この点をイメージの湧きやすい表現で、こう述べています。「自分自身が伸びたい方向に向かって成長する」ことであると。更に、「自由に成長するためには、それを受け入れ、支えてくれる多くの人を必要とする」とも。(『生きる技法』安冨歩著)

「出離」の行動は、脱綺麗ごとを意識し、発芽した種子がすくすくと伸びていくように生き、そのために他者に頼ることも厭わないこと。こうした表現の方が、私たち日本人には馴染みやすいのではないでしょうか。

画像の注記:書道家が「守破離」を表現したもの。「鳥籠が開いて、閉じ込められていた鳥が、空高く舞い上がる状態」を「離」とする点は共通している。

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