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もっと自由に中国古典を学ぶ アンラーニングによるインスピレーションの増幅

受験勉強で砂をかむような思いで記憶した中国古典の読み下し文は、私の中国古典への興味を削り取っていったようです。ところが、ハーバート・フィンガレットの『孔子』を読み、著者の着想の新鮮さに背中を押され、中国古典を手に取ってみました。読み下し文とは決別し、英訳してみることにしました。漢文を英訳してみると、インスピレーションが膨らんでいく気がします。そして、他の格言と結びつける自由度も増します。

一例として、老子の「道可道也」の4文字を次のように英訳してみました。「We can be whatever we want to be.」

すると、空海聖人の言葉が吸い寄せられていきます。「迷悟我に在れば、発心すれば即ち至る。」自身の中に必要なものは全て備わっている。かくあるべし、と思えばいずれは実現する。

こうして、読み下し文からの解放は、インスピレーションの増幅をもたらします。

老子の「道可道也」は、「非恒道也」と続きます。We can be whatever we want to beに続く(超訳)英訳を次のようにしました。We can deteriorate ourselves without limit(非恒道也)。

この英訳に、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の次の一節が、パズルの最後のピースのようにはまりました。

「人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほうんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。たが、どのように、とは問はないでほしい・・・・・。」

フランクルは、第二次世界大戦中、妻とともにナチスの強制収容所へ収監され、生と死の極限に身をおきました。最愛の妻は別の収容所で絶命。絶望の淵に幾度も立った人間が紡ぎ出す言葉と二千数百年前の老子の言葉が共鳴するのです。

二千年以上語り継がれる言葉の力と極限の状態で人間の本性を見定めたフランクルの文章が共鳴し合う不思議。学者先生からは怒られるかもしれませんが、(アンラーニング)英訳によって、インスピレーションが増幅し、中国古典に翼を持たせたように思えます。


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