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詩の勉強会

夏場の体調不良や所用での欠席の方も多く
一人あたりに割いていただけた時間は
いつもよりもあったのかもしれない。

私が出したのは二編。
前回の「多次元の母」の書き直し「母・入院中」と、
ここでも載せていた「御朱印帳」である。

母・入院中                 
 
久しぶりに母に会った
あら 珍しいじゃない とかいう
 
仕事を辞めた話をしたら
私だって去年まで働いていたという
九十歳まで働いていた と
今、母は九十二歳 本人は九十三だと思っている
以前 医者に九十四だと言って叱られた という話を三度した
 
病院内の談話室のような部屋にいつも座っているのだ という
そうしていると すぐに時間が経ってしまうらしい
何日も経ってしまう という
 
私の顔を見ながら
母自身の姉妹の事を聞くのは
やはり私が自分の娘だと分かっていないのかもしれない
 
八人いた、母の兄弟姉妹
母は次女である
母の姉と母の妹、合わせて四人 もう亡くなった
 
私の名前は最後まで出なかった
帰りたいとは一度も言わなかった
 
少し穏やかになった顔を見ていると
まぁ なんでも良いか とも思うのである


前回、その人がその人であるという、
そういうリスペクトのない、
記号でくくったような表現はするな、と言われ
その後、コロナ後に久しぶりに本物の母と会い
娘である私のことを覚えていて欲しいなどという気持ちも
無くなってしまった。

この詩は「これで良いんだ」と言われた。
夏井先生に「直しはいりません」と言われるくらいのうれしさ。

他の方から「とか」という表現が・・・と言われた。
「とかいう」ではなく「から始まる会話」あたりが良いかもしれない。



御朱印帳        
 
母が御朱印を集めていたことを知っている
今の私と同じ年齢には、二冊目になっていたかもしれない

お寺のサインをもらう御朱印を、私は集めたいと思ったことはない
長田弘のサインを喜んでいる私ではあるのに
母が写経をしているのを見たこともある
鎮めたい怒りがあったのだろう 
悲しみかも知れないが
写経したものは
どこかの寺に納めたと聞いた
母が何から解放されようとしていたのか私にはわからない
解放されていないだろうことはわかってしまうが。
他人の苦しみなんて目には見えない
自分自身が何に苦しんでいるかだって
長いことわからなかったのだから

欠点はわかっても欠落はわからないのが家族なんじゃないか
欠落を見ないふりをするのが家族なんじゃないか
愛があったとしてもそうでなくても

この詩については、最後の三行が問題だと言われた。

もっと家族とは何か、という問題と格闘して言葉にせよ と。
この三行、私本人は、
ちょっといい感じにまとめた風に思っていたのだけれど
全然だったのだ。

この三行によって、前半が軽い感じになってしまう、と。
まとめないで、もっと突き詰めて考えなさい、と。

家族について突き詰めていないことはわかっているのだった。
一生の課題となるかもしれないくらい。


私はこの勉強会メンバーの中では新参者だ。
詩の本を出していないのは私だけかもしれない。
でも先生が
家族以外の題材の作品も読んでみたいと言ってくださった。

思わず、「『突き詰めていない問題』が
  しょっちゅう出てきそうです」と言ったら、
「そこはそれ」「格闘してもらわないと」と。


直した方が良いところがあるだろうけれど
自分ではわからないから習っているのだ。
たまに「これでよい」と言ってもらえるとものすごくうれしい。
単純である。

落ち着いてほかの方の詩の話を聞いていたら
「この地名が出たのに唐突感がある」とか
そんな感じの事を言われている方もいた。

何人かの方が、「この時こんな本を読んでいたので」 とか
「詩人の誰彼を思い出して」とか
そんな理由で一行付け加えたりしていて指摘されたりして、


それから
「詩を書く人である」と「詩人」とはどう違うのか
という問題。
「詩人」という記号になってしまうことへの抵抗感があるかないか。

難しいところである。
とりあえず、「ポエマー」とは言われたくはないのである。
なんだか「脳筋」の対立項の一つのようで。
「現実を見る力がない」というイメージがありそうで。
そのイメージを持っているのは私ではある。




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