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読書メモ:倫理の経済学 第1章「われわれはもっと働くべきだ」

変人/偏人ブキャナンを読む。
FIREを選択することの外部不経済。あなたが感じる「後ろめたさ」は正しい!

ジェームズ・M・ブキャナン/ 訳者:小畑二郎(有斐閣 1997年2月初版)

「われわれはもっと働くべきだ」 労働倫理の経済的価値

 個人が持てる時間の中から市場に供給する労働時間を選択するに当たって、労働倫理によって「もっと働く」=(遊休や自分の時間に費やすのではなく)市場により多くの労働時間を供給することが促されるとしたら、その労働倫理の経済的価値はどのように評価されるのか、というのが第1章の課題である。平たく言えば、「もっと働く」ことを選択することは、選択する当人以外の人々にも利益をもたらすのか(経済外部性)、ということである。

 ここでの「働く」には、ほぼ文字通りの意味での定義がなされている。被雇用者あるいは自営業者として、労働時間を投入して経済的価値を作りだし、その価値の見返りとして賃金や収入を受け取ることである。その受け取り分は、自らの消費として財・サービスの購入に充てられる。この様な市場における経済連鎖への労働の供給に該当しない行動は、ここでは「働く」ことからは除外される。「遊休」を選択した時間は市場に供給する労働時間から除外されるし、趣味に費やす時間や、将来には価値を生み出す可能性はあっても現時点では市場価値のない行動(個人的な関心による研究活動、起業準備)に費やす時間なども「働く」時間からは除外されることになる。

 結論としては、「もっと働く」ことで市場全体の経済的価値は増加し、経済効率も向上する。これは「市場の規模拡大が資源利用における専門化の度合いを高め、生産力を増大させる」というアダム・スミスの基本命題によって導かれる。市場すなわち交換のネットワーク規模の拡大に対する収穫逓増、そして、その連鎖に供給される資源投入による経済規模の拡大に対する収穫逓増の効果である。従って、労働を促す倫理は経済的価値を有する、ということだ。

 労働と遊休との選択には外部性が存在する。つまり「もっと働く」ことを選択することは、選択する当人以外の人々に外部利益をもたらす。逆に遊休を選択することは、外部不利益=損失を与える。実際、少なからず個人は労働と遊休との間での選択の余地を有している。一方、個人の自発的な調整では、労働と遊休との間での選択において最適性もしくは効率性を達成しないことが示されている。そこで、労働倫理により内部化する余地が示唆される。すなわち、労働を選択することへの労働倫理による誘導、ないし遊休を選択することへの倫理拘束、である。この様な労働倫理による経済的効果、あるいは個人の幸福の増減への影響、という点では所与の経済環境に依存する可能性はある。例えば、ブキャナンは執筆時点1994年当時として、シンガポールや台湾では限界的な選択が効率的な境界を超えている(すでに働き過ぎている)一方で、米国では労働倫理の水準はひどく侵食されている(怠けている)、と指摘している。

 この設問と結論は、多様なライフスタイルの選択を求めるわれわれにとっては、多少の居心地の悪さも感じさせる。逆に言えば、(偏人との誹りを恐れず)現代の社会でこのような論陣を張る勇気のある論者はあまりいないだろう。実際のところ、ブキャナンが存命なら現在の米国でのFIREブームを見てなんと言うだろうか。しかし本章で第一に標的となっているのは、新古典派経済学者である。

 新古典派の分配理論では、追加投入される資源は限界生産性によって価格付けされる。そこでは、生産物の総価値は分配しつくされて過不足が生じないことが保証されるのか(そうでなければ、誰が余剰を獲得するのか)、という「加算」問題が議論されてきた。この加算問題は、生産が規模に対して収穫不変、との仮定のもとで解決されている。ここで本章の議論は図らずも、新古典派モデルとアダム・スミスの基本命題との矛盾を露呈させている。新古典派モデルによれば、「もっと働く」ことを選択した人は、その追加の労働投入による生産物価値の追加分に等しい対価を受け取る。市場全体が生み出す経済的価値は増大するものの、その全てが追加の労働投入に対する報酬として支払われ、他の誰にも影響を及ぼさないことになる。これは明らかにアダム・スミスの基本命題と矛盾している。そもそも新古典派モデルは資源投入の供給を固定的と仮定しているため、本章での様な問題設定を提示されなければ、その矛盾にも無自覚であったであろう。

 とはいえ、本章を新古典派経済学への批判としてみると、労働倫理の経済的価値を持ち出すなど、展開としてはあまりにも回りくどい。新古典派モデルの限界が資源の追加投入に対する収穫不変に前提を置くことにあるのは明らかで、単一の産業に当てはめる妥当性はあっても、経済全体での規模の拡大に対する収穫逓増と整合しない。それを指摘するだけで十分である。しかしブキャナンが問題とするのは、新古典派経済学が労働投入は個人の合理的な選択の領域外であることを暗に仮定している点であり、彼が重要と考える問題すなわち個人の選択と経済への労働倫理の影響に関しても、何ら洞察をもたらすことが期待できないと言う点だ。これは契約主義者であるブキャナンとしての、新古典派経済学の基礎の上に立つ功利主義者への批判と見るべきだろう。

 新古典派や功利主義が市場機能に基づく功利=効用の可測性に信頼を置く一方で(信頼の程度による流派の違いはある)、人々が共有する「正義」や「倫理」といった社会的基礎の存在を軽視ないし無視することに対して(契約主義者は「存在する」と考える)、契約主義者として警鐘を鳴らしているのである。もっとも、ブキャナンには「ピューリタン倫理」など特定の倫理を奨励する意図はなく、あくまでも、「労働」や「貯蓄」を促す要素を持つ倫理の存在が(それがピューリタニズムであれ、いかなる宗教・道徳や社会・文化背景に基づくものであっても)社会や経済発展に有益となる、という客観的な事実を指摘しようとしている点には注意が必要だ。その事実を新古典派経済学者や功利主義者でも受け入れざるを得ない論理的枠組みで立証しようと言うのが本書の目的である。そして、「労働」や「貯蓄」を促す倫理を外挿的に導入すべし、との安易な結論には距離を置きながら、むしろ、そうした倫理は社会的基礎としてすでに存在するものであることを示唆している(そう考えるのが契約主義者)。倫理の経済的価値、ここでは「もっと働く」ことの外部利益を明らかにし、個々人の経済的選択に自覚的に影響させるべき、との提言なのである。つまり、FIREを選択することは外部不利益=その他の人々に損失を与える行為であり、あなたに「後ろめたさ」を感じさせる労働倫理は確かに存在するし正当なものなのである。

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