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「ただより高いものはない」-実感する日が来ませんように。

「ただより高いものはない」意味は、「ただの物は返礼に苦労したり、無理な頼みごとをされたり、かえって高い代償を払う」。この背景には「もらいものには返礼をする」という意識があります。この意識は、ほとんどの人類の文化には備わっているらしいです。
さて。改めて周りを見てみると、「ただ」で(無意識に)使っているもの、ありませんか?

圧倒的な「ただ」=情報

現代において、「ただ」の代表格といえるのは、情報提供サービスです。インターネットの普及、さらにはスマホで得られる情報の激増により、ちょっと前なら書籍を買うことで得られた情報が、安価に、もしくはただで手に入るようになっています。
インターネット登場前の時代、「ただ」情報の代表は、テレビでした。テレビ文化は皆が長く経験してきているので「なぜ、テレビはただで見られるのだろう」と改めて問うこともないですよね。N公共放送を除いては、誰もがあたりまえに「ただ」を享受し、そのためのCMも受け入れています。
インターネットが「ただ」である理由も同じなのですが、テレビほど「CM」の受け入れ度合いが低いような気がします。テレビよりも「じゃま!」「不快だ!」と感じる人も多いように思います。テレビが「情報(放送本編)とCMを明確に分離している」作りであるのに対し、インターネットは「分離されていない」ことも一因。普及してからの経過時間が短い分、「慣れ」ていないこともあるかもしれません。

インターネットにはもひとつの「ただ」の理由が

インターネットによる情報提供が「ただ」である理由は、広告以外にもうひとつ、とても大きな要素が存在します。それが、

「データ」

です。
サービス提供側は、利用者ユーザーのデータを取得します。どこのどのような情報を見ているのか。いつ何を使って見ているのか。何回見ているのか。どのようなアクションをしたのか(商品を買った、申し込んだ。買わなかった)。取得されたデータは他のデータと混合され、利用者の「像」をより鮮明にしていきます。インターネット上で行ったアンケートから、どこに住んでいる何歳くらいの仕事は何をしている人、まで特定されるかもしれません。そして、そのデータは、インターネットの広告配信に利用されます。広告を出したい企業が「〇県に住む△歳の、収入×以上の◇性」と指定すれば、その条件にあった人「だけ」に広告が配信されます。広告を出す側は「効率化」でき、配信側はより出稿費用を得ることができるようになります。このサイクルが回る元は「データ」。私たちの「データ」です。

建前は「個人情報ではない」だったが

厳密には、インターネット閲覧ソフト(ブラウザ)を特定するので「個人を特定する仕組みではない」というのが提供側の主張ですが、個人が所有する「スマホ」による行動が主流となると、実はほぼ「個人特定」されているのではないかと思います。スマホによるキャッシュレス決済も、データをより鮮明にするためにも使われています。
こうなると、「規制」という流れになるのは当然で、欧米から始まり、既に全世界的に「データを使う場合の規制」が広がりつつあります。
テレビCMで、Apple/iPhoneの「個人情報オークション」を見たことがありますでしょうか。

「エリーの個人情報オークション」会場では、「彼女のメール、開封して読んだもの」、そして「ドラッグストアでの購入履歴」、さらに「最近の取引メール」がオークションにかけられていきます。その様子を目にしたエリー本人は、あきれ顔でiPhoneの画面で「Appにトラッキングしないように要求」を選択。すると競売にかけられていたデータが、そして競売人たちが次々と姿を消す、というストーリー。

まさにこれが、今、インターネットで行われている「情報データ」の扱いです。このCMクリエイティブは秀逸。データは、「瞬時に行われる」オークションによって、私たちの知らないところで利用されているのです。私がニュースを読もうとページにアクセスした瞬間に、「50代男性、千葉に住み、家族ありの会社員」に広告を出したい企業が、オークションに勝ち上がってアプローチしてきます=広告を出してきます。

これからは「使い方」が重要になってくる

”怖い”インターネットの世界。ですが、避けて通るわけにもいきません。「ただ」の情報を、私たちが、どう取り扱っていくのか、が鍵になっていきます。
一般的に(直感的に)「ただ」のものは、品質の問題が絡みます。販売責任が存在しない「ただ」は、情報提供側の資質、姿勢を見抜く力が必要になります。100円均一で買ったものを「安いから(すぐ)壊れてもしょうがない」と諦める、本当に長く使いたいときには吟味した上で「少し高くても信頼おける提供元からのものを買う、利用する」といった行動は、私たちの経験上身につけているはず。インターネットの「ただ」は、「ただだからすべて悪い」ということではないのですが、「ただ」のウラガワにあることを考えることも必要です。無料サンプルを申し込んで、後から執拗な営業攻めにあうような。営利企業が「ただ」のまま、「ご自由にお使いください」で終わるはずがない、くらいの意識があったほうがよいかも。
ちょっと神経質すぎるように見えますが、情報という「見えないもの」を提供するには、慎重さが大事なんです。

もちろん、「自分にあった広告があったほうがよい」という考えも、間違いではないし、(乱暴に言えば、)「ただで情報を得られるのだから、被害にならないなら個人情報の提供もやむなし」ということも言えるかもしれません。閲覧くらいならそこまでビクビクしなくてもいいのかもしれませんが、「ん?あれ?」と思うようなところで申し込む、登録する、などは、もう一度考える時間を持った方がよいかも、です。

ちなみに、「ただより高いものはない」意識は、年代があがるほど高まっていくそうです。「高い」経験をすると意識が高まる、ということでしょうか。だからといって「失敗を重ねる」必要もまったくないので、若い世代の方も、気をつけていきましょう。


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