のっきー

昭和49年生まれ。生まれも育ちも花屋敷です。 雲雀丘花屋敷の忘れたくない風景と心もよう…

のっきー

昭和49年生まれ。生まれも育ちも花屋敷です。 雲雀丘花屋敷の忘れたくない風景と心もようをエッセイにしています。 日本史が好きで古墳巡りや偉人を調べたり、書道や短歌も楽しんでいます。 今年から男性歌劇団「ミュージカル・バディーズ」に加わり、歴史ミュージカルに挑戦中!

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  • 雲雀丘花屋敷のみちをゆく

    阪神間モダニズムがいまなお香る、雲雀丘花屋敷。雲雀丘花屋敷を歩いてその魅力に迫る、1話完結型ミニ紀行エッセイ。雲雀丘花屋敷にお住まいの方はもちろん、近代建築ファンや郷土史ファンにも。令和6年9月末まで全20回。毎月10日、20日、30日に投稿予定です。

最近の記事

雲雀丘花屋敷のみちをゆく# 8 ベルのピロシキ

子供のころに食べたあの味をふと思い出す、ということはありませんか? 同級生と雲雀丘トークをしていたときのこと。雲雀丘花屋敷駅前に神戸ベルがあったという話題で盛り上がりました。 駅前のタクシー乗り場から少し行ったビルの1階にあり、いまはアメリカヤほーむクリエイトという不動産屋さんがあります。 昭和50年代から60年代、ベルは西洋の香りのする、モダンでハイカラなパン屋さんでした。パンだけではなくプリンやアイス、ケーキまで売っていた、とても楽しいお店でした。 一番好きだった

    • 満仲物語 Ver2.1 タイムスリップ版

      満と法子川西清和高校硬式野球部3年のキャプテンでキャッチャー多田満とマネージャーの坂田法子はお互い思いあっている。高校最後の夏の大会前日、満は法子にあるお願いをした。「明日は勝つ。おれはこのバットで法子を幸せにする。気合を入れたいから俺にケツバットをしてくれ。」法子は「いまどきケツバットなんて。昭和じゃないんだから。パワハラにならないかしら」と戸惑いながら、ケツバットをしようと満のお尻に当たったその瞬間、バットに舞い降りてきた竜神。その龍神の稲妻に二人はその場で気を失い倒れこ

      • 雲雀丘花屋敷のみちをゆく #7 やまんばと紅葉橋

        やまんば、と聞いて、どういう存在なのか理解ができるのは、それなりに年を重ねた人だろうと思います。 雲雀丘花屋敷駅から雲雀丘学園グランドへ向かう途中に「紅葉橋」という橋があります。 小学校低学年の頃だったでしょうか。学園グランドの裏山に遊びに行くとき、友達がこう言いました。 「この橋を渡るときにふりかえったらあかん、やまんばが出てきてかみころされるで。」 「やまんば」がどういうものか、私は知りませんでした。しかし「かみころされる」という言葉で、「やまんば」がとにかく恐ろ

        • 満仲物語 Ver1.1(暗い版)

          1.将門へのあこがれ源満仲は京で平将門に出会う。関東に武士の世を作るという理想を語る将門に満仲は大きな影響を受ける。父、源経基からは、武士の世を作るなど大それたことを考えず、摂関家のガードマンとして生きろと叱責される。若き満仲はそんな父に反発しながら弓の名手として名を挙げていく。 【歌】青年満仲のうた 2.法子との出会い源俊娘、法子は京の市で買い物をしている。そこへ餓えた犬が法子に襲い掛かる。その様子をみた満仲は矢を放ち犬を追い払う。驚く法子に満仲はやさしく声をかけ、独楽

        雲雀丘花屋敷のみちをゆく# 8 ベルのピロシキ

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        • 雲雀丘花屋敷のみちをゆく
          9本

        記事

          満仲物語

          将門との出会い912年(延喜12)年に京で生まれた明王丸。若き明王丸は京で平将門と出会う。坂東に武士による武士のための世界を作りたいという夢を明王丸に語る将門。そんな将門に憧れる明王丸は元服をし、源満仲と号する。 父、六孫王が将門を密告、将門の死 満仲の父、源経基は任地の武蔵国から京に逃げ帰ってくる。その父が朝廷に告げたのは、あの平将門の謀反。そして940年(天慶3)将門は藤原秀郷に討たれる。その秀郷の息子、千晴と将来満仲は敵対関係になる。 武士のための世の中を作るため

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく#6 高碕達之助

          駅からメインストリートをゆるやかにあがり、急な曲がり坂を登っていった、山の中腹に高碕記念館はあります。高碕達之助(1885-1964)の旧宅です。 「高碕達之助にご興味あって来られたのですか?10人に1人くらいですかねえ。ヴォーリズ建築に興味ある方がほとんどですよ。」解説員の方は少し驚かれた様子。 高碕達之助は現在の東洋製罐グループホールディングスを作った実業家。晩年は政治家、閣僚として、日中外交、日ソ外交に尽力。昭和37年当時国交のなかった中華人民共和国との間に結んだ覚

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく#6 高碕達之助

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #5 秀平さんのお庭

          宝塚オープンガーデンフェスタというイベント。宝塚市内の個人邸のお庭を見学してもらおうという企画で、かれこれ20年ほど行われているそうです。 そのガーデンフェスタで、秀平和子さんがお庭を公開されているとお聞きしたので伺うことにしました。 抜けるような春の青空、太陽がほどよく照り付けた4月中旬。雲雀丘特有のぐいっと急に迫ってくる坂をあがりきると秀平邸に到着しました。ウッドデッキから視界が開け現れたのは、広い青空と洋館、五月山。ひとり声をあげそうになるくらい美しいものでした。

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #5 秀平さんのお庭

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #4 荘川桜

          ひばりがおかやまぼうし公園に植えられているアズマヒガンは、荘川桜とよばれ、岐阜県にあった荘川村に由来しています。その荘川桜がなぜ遠く離れた雲雀丘花屋敷に咲いているのでしょうか。その答は戦前から終戦後にかけて雲雀丘花屋敷に居住していた、高碕達之助(1885-1964)にありました。 岐阜県の御母衣ダム。昭和25年にこのダム建設の計画が立てられ、荘川村は廃村となりダムの湖底に沈むことが決定されたのでした。 住んでいる村が沈む。この悲しみはいかばかりでしょう。電源開発株式会社の

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #4 荘川桜

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #3 一本の桜

          みなさん、桜やお花見は好きですか? 雲雀丘花屋敷からほど遠くない、池田市にある五月山は北摂でも有数の桜スポット。五月山公園を整備し桜の名所にしたのが、戦後の池田市長、武田義三(1896-1975)です。 桜を植えたいと思ったきっかけが、なんと雲雀丘花屋敷の桜だったそう。 「雲雀丘の春は全山ピンク色で羨ましいのう・・・五月山もそんなふうにしたいものよのう・・・」 と、言ったのか。 猪名川沿岸から武田義三が見た当時の雲雀丘の山々は美しかったことでしょう。 いま、ちょうど

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #3 一本の桜

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #2 花屋敷駅

          阪急宝塚線の駅、雲雀丘花屋敷。ひばりがおかはなやしき。雲雀丘花屋敷は2つの駅が合体して出来た駅名なのです。「雲雀ケ丘」駅と「花屋敷」駅です。 明治43年に箕面有馬電気軌道、いまの阪急宝塚線が開通しました。その時作られた箕面有馬電車唱歌、12番から当時の沿線の様子がうかがえます。 ♪南に開く山の影 新たに植えし花屋敷 木部(きのべ)平井や山本に 四季ももくさの花畑♪ 開通当時には花屋敷のみで、雲雀丘はまだありません。花屋敷のあと雲雀ケ丘が出来て、昭和34年雲雀丘花屋敷とな

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #2 花屋敷駅

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #1 主役は人

          雲雀丘花屋敷は大正初期に開発されたまち。100年以上経過しました。歴史の風雪に耐え、いまも残っている当時の洋館があります。 この洋館のある風景が雲雀丘花屋敷の大きな魅力。洋館のお話は欠かせません。この「みちをゆく」は、雲雀丘の洋館を中心とした話になっていくでしょう。 川柳人の恵陸さんというお友達がいます。愛知県にお住いの恵陸さんは泣く泣く箕面にあった生家の取り壊しを経験されました。「人間の寿命と建物の寿命が違うからむずかしい」と恵陸さん。この話を聞いて、なるほど、そうだよ

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #1 主役は人

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #0 はじめに

          こんにちは。雲雀丘花屋敷のみちをゆくという、とてもちいさくささやかな紀行エッセイを書いていきたいと思います。イメージは司馬遼太郎さんの「街道をゆく」。「街道をゆく」を読まれたことありますか? 雲雀丘花屋敷は大正初期に開発された住宅地です。とても静かなまちです。苦楽園と比較すると地味な印象です。訪れる人も多くないでしょう。しかし実際に歩いてみると、じんわりと良さが感じられるのです。 それを書き残したい。令和6年の雲雀丘花屋敷を切り取り、感じたことを書いていこうというこころみ

          雲雀丘花屋敷のみちをゆく #0 はじめに