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【民俗学漫談】貨幣の形態の変化

ふと気づいたら、映画でも漫画でもゲームでも翻案(実写化を含む)や二次創作的なものが多い気がしました。
テクノロジーが進んで、今現在のデジタル技術で作り直したくなるのかもしれませんし、今現在にふさわしてものとして作り直したくなるかもしれません。
それで、実際にヒットするのですが、何かが違う気がしていました。

まあ、デジダルが多いのならば、あえて、フィルムで撮影した方が個性的なものができるかと思われますが。
ツールは思考を変えますし、かえって、デジタルの方が「もどかしさ」みたいなものを感じる場合がありますし。

文学も音楽も映像もおそらく何か別物になったか、全く新しいものが作りにくくなったのでしょうか。
デジタルツールは、無限に見えて実は思考を限定的にしてしまうのと、インターネットの『システム』みたいなもの(常にある種のネットワークの中に自分がいる感覚)が人の思考を変えてしまっている気はします。
ある一つの物に集中することが脳のレベルで難しくなっていて、それは同時にマルチタスクができるようになっているという事でもあるかもしれません。
以前に100のものが作れたとして、現在は70くらいの物までしか作れなくなっている半面、昔が100のものを作る時間で70の物を2つも3つも作れるようになっている気はします。

などと、漠然と考えていたら、先日、高山宏先生の『近代文化史入門』を読んでいて、これではないかと思った箇所がありました。

「金に異変あるとき、言葉にも何かがおこる」P.115

もしかしたら、貨幣の形態の変化が今の作品に影響を及ぼしているのではないか。

続いて、このような文章が続きます。

これが当てはまる時期は七つも八つもある。
井原西鶴の貞享・元禄時代、平賀源内の宝暦・明和時代、ポーのジャクソン民主主義時代などなど。なぜだかおわかりだろうか。答えは簡単。
一六六〇年代に立ちあげられた表象の構造が原因である。言葉とお金を同じ「契約」の構造として出発させたのだ。
同ページ。

まず、貨幣経済ができ、金貨をはじめとして貨幣そのものに価値がある貨幣ができますね。
続いて、紙幣が登場し、その紙幣は兌換紙幣な訳です。

さらに、不換紙幣がてでてきます。
貨幣が「契約」でしかなくなってしまいました。

現在、クレジットカードをはじめとした電子マネーが普及していますね。

電子マネーの普及は、その物自体を実体のない記号と化してしまった。
それなら言葉も変わる。
芸術も変わる。

ということなのではないのでしょうか。

現金を使うということが重要だったんですよ。

電子マネーでの買い物は、ただの取引なんですよ。

鬱屈したものの出口をメデイアが用意しているから 大学生もそれに乗るだけ。お金が発生するが、そこでのお金はリアルマネーではない。

テーマパーク マンガ ゲーム 飲食店

エネルギーの出口が同じ人間は、思想も性質も同じになる。

支給品ですよ、電子マネーでの買い物なんて。

現ナマで支払うから、無駄使いの感覚か生じるわけなんですよ。
買い物って、どのみち、無駄遣いの要素が入ると思うんですよね。
厳密な等価交換なんてないわけですから。
ドブトエフスキーがどこかで、
貨幣は、鋳造された自由である
というようなことを書いていた気がします。
お金って、経財上、便利なものと言うより、使うことで、
『使ったぞ!』、『俺はやったぞ!』と思う物でしょう。
『跳び越えたぞ!』みたいな感覚、必要なんですよ。

紙幣は、実祭の価値の代わりのものなんだから、物(ブツ)といてのお札を使って、蕩尽をするわけですよ。
電子マネーじゃ、減ったのは、情報だけなんですよ。
10万円くらいの札束を一度に使うときのどきどき、後ろめたさ、ヤケクソ気分を感じることで何かを乗り越えるわけですね。
お札はお札(ふだ)な訳ですから、自分から離すことで、軽くカタルシスが起きているわけです。

日常をリセットする方法は、ありますが、伝統的には蕩尽があります。

デジタルは、コピーが可能なわけですから、「減る」感覚が薄まってゆくのは当たり前です。
バカな遊びや買い物をしてカードはないわけですよ。

いきなりまじめじゃないですか。

少し前までお金は綺麗なものではないという感覚もありましたが、それもう薄れてきている気がします。

何より、自分で稼いだお金を大切にするという感覚は現金を使いからこそ生じるんですよね。

電子マネーじゃありがたみが薄れて、「必要なもの」ばかり買おうとし、その実、その「必要なもの」がメディアに乗せられたものになっていくと思いますよ。

恐怖が欠けている。アイロニーの海の暗い面が欠落し、明るい面だけが生の全貌として合一化の対象になっているからだ。

高山宏『アリス狩り』P.252

自分のいらない物を人にあげるよりもお金を出して買った物を上げた方が、蕩尽になります。

まして、売却して利益を得たら、情念もとどまりかねない。

近代の資本主義は国家に勝るとも劣らない嫉妬深さを示す。
それは貨幣に計量化できないもの、自由な交換に投げ入れることのできないもの、資本として増殖していく価値に自分を譲り渡していかないものなどが、この世に存在していることが許せないのだ。
中沢新一 森のバロック p.306

すでに持っている物を使わないからと言う理由で誰かにあげたところで、それは「所有の移動」にしかなりません。

そこに生命力(エロス)の迸りはないわけです。

人に贈物をする時こそ、大切なお金を蕩尽するチャンスです。

現代の合理的な理性がしたがらない蕩尽のいい機会なのです。

どこかへ出かけた時にお土産を買って来るのは、その一つの例ですね。

あれは「お世話になっているから」と言う理由で納めてしまいがちですが、実は蕩尽をしているのです。

蕩尽できるかどうかですよ。

相手を思っているかどうかが分かるのは。

それこそお金も時間も。

電子マネーって、ポイントや履歴も含めて、自分が得するスタンスじゃないですか。

投資もそうですけど。

そうじゃないんですよ、お金って言うものは。

呪であり、祓いでもあるわけです。

お金を使うことにより、積もってゆくケガレを祓い、その都度世界をリセットするわけなんですよ。

20世紀は超越者ではなく、物がその確固としたものであるがゆえに普遍性を持ち、信じられましたが、21世紀は貨幣ですね。そもそも物を信じている段階から思考が数感情になるわけですから。

貨幣の、その普遍性が信じられて崇拝されているんですよ。

遍く広まってしまったわけです。その文化、つまり思考の管理統制が。

若者が車をはじめとして物を買わないと言われていますが、あれ、もしかしたらお金そのものを信じているんじゃないでしょうか。むしろ数字にしないと理解できないように慣らされてしまっているのでしょうか。

また、貨幣というものは、国家的建造物やイベントと並んで所詮は虚構である国家というものを実感させる効果があったのですが、電子マネー、さらに進んで、仮装通貨になれ始めたらば、ますます気分的には国家に対する実感は薄らいでいくでしょう。

共通言語としての貨幣

貨幣というよりお金というか通貨でしょうか。

昔から国家をはじめとした権力者は大衆を制御したい、何なら利用したいと常に考えているわけです。

利用するためには伝達手段がいるというわけで文字ができる。

文字を使えば、権力者が直接大衆に伝える必要がなくなる。

学校でまず、字を教えますよね。

言葉も各地でバラバラに近かったものが共通化される。

しかし、言葉というものはどこまでも完全に意志が伝わるものではない。

そこで、絵を用いる。さらに写真を用いることにより、全体主義国家はたやすくプロパガンダを行うようになる。

全体主義国家ほど、メディアを利用するわけです。

こうして、言葉ではなしえなかった共通言語が写真や映像などの視覚表現で一度うまくいったかのようなる。

しかし、写真や映像でも、そこには解釈が生まれる。

余計な解釈をさせないように、トリミングや編集をし、ストーリー付けをし、キャプションをつける。

そうして、大衆を説得する。

今、ほとんど完全に使い共通言語がありますよ。お金です。

お金は電子化し、すっかり数字になってしまった。

お金の意味が消え、数という、最も単純で最も素早く正確に伝達できるものになってしまった。

かつてのテレビの視聴率や雑誌の発行部数で鼻を高くしていた時代から、今はSNSにおける数勘定が価値として認識される。『収益化』などと称して、その数勘定に対してお金が支払われる。

こうして、数に価値が出てくる。

今や、サラリーマンという会社従業員でさえもが、自分の年収で自他を比べてしまうようになってしまいました。子供が偏差値で自分の価値を見出すように。

『わかりやすい』ですからね。

広告でも、まあ、同じものですがプロパガンダでも、『欠如感』を植え付けるわけです。

『君は何か足りていないんじゃないか』、『何かすることがあるんじゃないか』、『欲しいものがあるでしょ』と。こうして言うと、悪魔のささやきみたいですが。

数字はその『欠如感』がはっきりしてきますから。

グラフにできますし。グラフにされても困るんですが。

貨幣はもともと虚構ですが、とても便利でとても役に立つので皆で、ノッているわけです。

仮想通貨なんて、私はいまだにその原理が理解できませんが、その虚構性を最大にしたものなのでしょう。

ダイアン・アーバスが現代にいたら、どのような姿の人々、どのようなシーンを写真に収めるのでしょうか。

全ては購買力の問題に集約されようとしている。

お金はとても便利でとても役に立つ。しかし、庶民が無理してお金のために心身ともに我慢し続ければ、お金で買えるものしか手に入らなくなるほど、個人的な魅力のようなものが薄らぎはしないかと思うのです。

貴族は生まれた時から経済力、今でいえば購買力を持っている。そうなると、自分とその購買力が常に一体化している。そうなるとお金の魔力に飲まれることはないのでしょうかね。まるっきり庶民なのでわかりませんが。

お金をたくさん手にしたら、おそらく自信がつくでしょう。

しかし、庶民の場合、お金と自分が一体化しない気がします。

しかし、貴族の場合、お金の力と自信が一体化しているわけですから、その区別もないんじゃないでしょうか。それで、庶民とは感覚がまるきり違ってくる気がします。

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