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私はどうして小説を書いたか

学生時代、富士山の頂上に3週間ほどいたことがある。

物珍しい体験だから、人に話せば喜ばれるし、また聞かれることも多い。

同じことを話すうちに、ストーリー仕立てで話してくるようになり、どのエピソードが受けのかどうかも考えて話すようになっていた。

しかし、繰り返し話しているうちに次第に面倒になり、十人目くらいから話しの途中で飽きてしまい、果ては途中を端折(はしょ)って話す始末で、それを聞いた友人が、「あんた、それなら小説にでも仕立てみたらどうか」と言った。

なるほど。名案だ。

30歳にならんとしていた私は、後楽園の路地裏の居酒屋でそう感心したが、あくる日、目が覚めてみると、『はて、小説というものはどうやって書くものだろう』と、思い返した。

小学校のころから、国語の成績は良かったが、作文なり感想文なりは苦手で、つまり面倒であり、感想文は解説をエディティングしていたし、自由課題なら星新一のショートショートばかり選んでいたし、作文についても、なにか感動したとかそのようなものではなく、単にイベントの説明文のようなものを書いて提出していた。

小説にしても、自分で買ったことがあるのは、星新一と筒井康隆となぜか読んでいたジェフリーアーチャーくらいで、あとは漫画ばかり読んでいた。

一度、確か中学生くらいの時に商店街に古本屋が開店し、その店先にあった坊ちゃんが100円だったから買ってみたものの、数ページで読まなくなってしまった。

有名な作家のエピソードを聞くと、国語の教科書を手にしたその日にすべて読んだとか、人形に役割を与えて、劇を作っていたとか、子供の時の話からして、常人とは違う。

私と言えば、漫画やゲームやテレビに青春を費やしてしまったような人間である。

そもそも小説家は、文学部などを出ているものではないのか。私も文学部出身ではあるが、神道学科であって、学生時代に読んだものは古事記、日本書紀、あとは柳田邦夫と折口信夫の全集を繰り返し読んでいただけである。

どうしたものかと腕を組んだ私は、とりあえず図書館に出向いた。

書く前に読まねば、と思ったのである。

図書館についた私であるが、何を読もうと目当てがあって来たわけではないから、書棚の間をそぞろに歩くだけであった。

適当に手に取ってみたものの、なんか古そうだなとか、奥付を見て出版社を確認したりとか、そうこうしているうちに出口の近くに戻ってしまった。

そこには、"新着図書"と題した新しい本が並んでいる。

きれいそうだからこの棚にあるものを借りることにした。

並んだ本のうち、芥川龍之介だけ知っていたから、蜘蛛の糸と杜子春を借りてみることにした。

家に帰って読んでみると、昔に比べて読めるようになっていた。芥川が児童向けに書いたものだからかもしれない。

それを返した後、再び、新着図書を見ると今度も芥川の文庫本がある。

またそれを借りる。続いて夏目漱石や森鴎外の文庫も新しく入っていたから、それも借りる。漱石や鴎外は少し長めであったが、どうにか最後まで読めた。初

そうして、新着図書だけを借りては返すという簡単至極な読書の仕方を繰り返すうちに、古典や現代、海外文学も読むようになり、そうして半年くらいが過ぎ、そろそろ書こうという心持がわいてきた。

読んだもののうち、自分は夏目漱石や芥川龍之介あたりの小説、特にその文章の上手さにひかれ、どうも、自分もああいう整った文章を書いてみたい、と思うようになっていた。

そこまで思うようになったのはいいものの、夏目漱石のような文章を漱石の小説を読んだくらいで書けるようになるわけではないくらいの分別は、私にもあった。

はて、どうしたものか、と考えた。

漱石は古典はもちろん、漢文に通じている。漢文も漢詩も自在に書けた。

そもそも日本語の書き言葉と言うものは、そもそも漢文から始まっている。日本書紀も、万葉仮名で書かれている和歌以外は漢文で書かれている。

そうであれば、まずは漢文から勉強してみてはどうであろう。

私はそのように思い至って、図書館へ行き、中公クラシックスの漢文シリーズを借りた。史記や論語、老子などである。中でも古文真宝(こぶんしんぽう)は、中国の漢から宋あたりの時代の名文を集めたものらしく、私のような漢文の初心者には読みやすかったので、これを丸暗記するまで読んだ。

漱石は、漢詩も堪能であった。漢詩の方はと言うと、その頃、ちょうどいい具合に、"漢詩紀行"と言う5分番組を朝の5時から3チャンネルでやっていて、江守徹や中村吉衛門が有名な漢詩の書き下し文を朗読していた。

私は、漢詩の書き下し文のかっこよさに惚れ、毎朝タイマー録画をして、ビデオテープ2本分になるまで録画し、毎晩それを聞きながら寝ていた。

漢詩紀行の書き下し文は図書館にあった唐詩選に比べて少し違うところもあったが、私は漢詩紀行の書き下し文の方がかっこいいと思ったのである。

ちなみに、漢詩紀行の慣習は二松学舎の石川忠久先生で、当時、二松学舎の学生に聞いたら、『カーネル』と呼んでいた。

そうして、なんとか、漢詩の白文の意味位は取れるようになった次は、万葉集にとりかかった。

本当の当時の話し言葉とは違うのであろうが、日本語のおおもとと言う点では万葉集に慣れることは欠かせないと思ったのである。

私が図書館で手にしたのは、講談社学術文庫版、久松 潜一の 『万葉秀歌』で、これも新着図書にあったから手にして、2週間で一冊ずつ読んでいった。

万葉集の後は、平家物語など古典を読み、同時に夏目漱石や特に森鴎外の文語体の文体をまねて、日記を文語体で書くようにした。それも旧漢字、旧仮名遣いで書くようにした。

私の書く文語体は明治時代の文語体の見よう見まねであるから、まともに書ける人から見れば感覚的に違う、文法的には間違っていないけど、ふつう、その言葉とその言葉をつなげないよね、と言ったもので、それは今でいえば、日本語を勉強中の外国人の日本語に近いようなものがあったと思うが、そんなことはお構いなしである。とくに手書きで画数の多い旧漢字をその成り立ちから辞書を引いて書くのは新たな楽しみとなっていた。

旧漢字旧仮名遣いで縦に書く。手書きで。

それは、どのような行いなのか。

手と脳はつながっているから、キーボードのタイプとは脳の動きが違うはず。

そして、人類はペンを持ち、直接紙に書くことで言語を思考を発展させてきたと思う。

書くことで脳を刺激し、さらなる考えを伸ばすに至る。

脳がそれに伴って発展しているはずだから、私もそうしてみた。

何より、手書きは楽しい。コンピュータで使って書くのは楽だけど、作業をしているような気分にもなる。

さらに、白い紙に黒や濃紺のペンで書く行いは、白い紙の上に置かれる黒の文字、そこに現れ出でるコントラストが視覚を通じて、これも脳に作用するわけであり、手の感覚と視覚を通じて、単なる思考であったものが紙に置かれた言葉となり、その言葉によって、続く言葉が決まる。

そのつながりの感覚はコンピューターではつい流してしまうようなことも少なくないけれど、手書きで、盾に、更に旧漢字と旧仮名遣いで書くと、でたらめに書くことはかえって難しくなる。

そえこえしているうちに、小説を書こうと思ってから3年が過ぎていた。

とにかく、頭のまわりにランダムに漂う、ノイズをとにかく紙に置いてみる。

今ならコンピュータでもいいと思う。

私は、あまりきちんと考えずに、ノイズ&ランダムネスで書き始めてしまう。

書くときは、夏目漱石の小説を30分は写して、頭を夏目漱石にしてから書いたものだった。

その後、ワープロで書くようになっても、文章のつながりがうまくいかないときは、手で書いてみるようにした。

文章上達のために考えていたことは、副詞を使わないで書く練習と言うことで、副詞を一切使わないで書いた。形容詞も極力使わずに描写をする。

副詞と言うものは人にわかってほしいと思って使うものだから、それをあえて使わないことで、描写の力だけで伝えられるような練習をするのである。

そうして、今度こそ書こうと思って、この3年で最も好きな作品は何かと思い返したら、それは夏目漱石の草枕であった。

私もこのようなものを書いてみたいと、今更思い立ち、改めて読んだ後、ようやく書き始めた。

話の内容は富士山の頂上で修業兼バイトをした時の話である。

原稿用紙を買ってきて、ペンはサラサのブルーブラックの0.7ミリである。

もちろん、旧漢字、旧仮名遣いである。

小説の書き方の本などを見ると、構成やプロットなどを考えてから書くもので、私も最初はノートを広げて書いてみたが、我慢がならなくなって書き始めてしまったのである。

とにかく、書きたい場面から書き出した。一つの場面を書いたらまた別の場面を書く。書きたい場面を書いているうちに、大体書ききったから、今度は、それを順番に並べてみた。一応、ストーリーを作ってみる。

しかし、どうもただの随筆にしかなっていない。あったことをそのまま書いているだけに見える。

これでは小説になっていないから、どうしたものかと思っていたら、窓の外から『ギョーザー』というスピーカーの音が聞こえてきた。

どうも餃子売りが来たらしい。

ふと思いついて、餃子売りを小説に出してみることにした。

そうして書いているうちに半分は本当、半分は嘘のフィクションが出来上がったのである。

タイトルは"不二山頂滞在記"とした。フィクション性を持たせるために富士山を『不二山』とした。この言い方は平安時代くらいの呼び方だそうである。

一度完成したものは100枚を超えていたが、そこから月並みな表現や『わかってほしい』と言う部分を外し、30枚以上削った。

よく言われる『引き算』ということで、余計なものは外した。
また、言葉と言葉の『間』というものを大切にした。

言葉の連なりは、単につなげれば済むというわけではなく、書かれていない部分も含めての味わいとなる。
参考にしたものは草枕の間だが、私は、子供のころからギャグ漫画やコントが好きで親しんできたため、自然とそのような類の間が身についていると思う。

私はかっこいい文章を書きたかったので、陳腐な言い回しや、普段その辺で使われてる異様な言葉を使わないように心掛けた。
推敲の段階で、ほとんど一語一句、他に言葉がないか、広辞苑や類語辞典を引いた。

最後にまた原稿用紙に清書した。

当時、ワープロもコンピュータも買える身分ではなかったのであった。

そうして、一年かけて書いた原稿であったが、さてどうしよう。

文学にも新人賞があって、軒並み文芸誌では募集している。

しかし、自分の書いたものが、新人賞など取れるとは思っていなかったから、どこか、投稿を受け付けてくれ所はないものだろうか、と探した。文芸誌の編集部に電話もかけてみた。

しかし、どこも新人賞に応募するようにと言わけただけであった。

どこかに応募すしかないか、と思いながら、ある日、紀伊国屋の雑誌コーナーの後ろを片っ端から見ていたら、早稲田文学が目に入った。

手に取って、後ろを見ると、なんと、投稿を募集しているとある。

読むと、『新人賞を希望しない方はその旨を書いてください』とある。私は、早速投稿した。

投稿した後で、『新人賞を希望しません』と一筆添えるのを忘れたため、葉書でその旨を書いて送った。

私は別に新人賞を希望していたわけではなく、載せてもらえればいい、と殊勝な考えでいたのである。

早速原稿を送って、それからなんとなく載せてもらえるような気がしていたから、楽しみに待っていると、携帯に電話がかかってきた。

出ると、早稲田文学の編集長の市川さんで、『新人賞を希望しません、とのことですが、新人賞に応募してもらってもいいですか』と言う。私としては載せてもらいたいのであるが、そう言われるのなら、まあ別にこだわりもないので、『いいですよ』と返事をした。『原稿用紙で送っていただきましたが、データはありませんか』と言われたが、ないから『ありません』と答えると、『ではこちらでなんとかします』とのことだった。

それからどのくらい過ぎたか。2か月くらいだったろうか。3か月くらいだったろうか。私は相変わらず神職の仕事を土日にしながら平日に本を読んだり、書いたりする生活をしていた。

ある日の午後、携帯が鳴り、出ると市川さんで、新人賞を受賞したとのこと。

私は舞い上がるほど喜んでしまい。その日はすぐに寝たものである。

1週間くらいたって、雑誌に載せるための写真撮影と、受賞のコメントをとるために、私はある日の夜に新宿の中村屋で早稲田文学の編集部の女性と落ち合った。背の高くてかっこいい人だった。

『仕事はやめない方がいいですよ』とのアドバイスもされた。

年末に近い頃、新人賞の授賞式は、当時高田馬場にあった、大正セントラルホテルで行われた。

盛大なもので、居並ぶ料理を前にして、何人もの人が挨拶をした。

当然、私も挨拶をしたのであり、それは家で考えてきたものであったが、まつたく場慣れしていない私は、真面目な話をしどろもどろに話しただけであった。

挨拶もすんで、皆、食べながら歓談と言うことになったが、どうもこういう場ではあまりがつかないほうが品がありそうだと思い込んで、むしろ思い違いをして、私は飲み物以外、手を付けずに人と話していた。

新人賞の審査員は5人もいて、それぞれ有名な方であったが、そのなかには、いとうせいこうや斉藤美奈子さんなど、私でも知っているような人もいて、話す機会があった。

いとうさんはセーターを着ていた。斉藤さんはなにやらかわいらしいセンスのある服を着ていた。

他にも有名な文芸誌の方から名刺をいただいたり、文芸系の新聞からは早速、エッセイの依頼まで受けた。

その後、二次会と言うことでバーに誘われたが、そのまま帰ってしまった。当時の私は、社会的な付き合いというものがちっともわかっていなかったのである。

その日の晩、家に帰ってからは、すっかり作家になったかのような気分で浮かれながら、数日後に渋谷の東急文化会館の喫茶展にインタビューを受けに出かけたり、依頼されたエッセイを書いたり、また本を読み、書いたりしていた。

当時、早稲田文学は隔月刊だったかと思う。

次の号が出たらしく、送られた来たものを見ると、そこには『今号を以て休刊します』とあった。


最初の小説はともかく、一度書く感覚を身に着けてしまえば、その後は感銘を受ける本を読むと書きたくなるもので、私はそうして書いてきました。

私が感銘を受けるのは文体であってストーリーではないから、すてきな文体に出会うと、自分もまねしてみたくなります。

例えばこんな感じで。

草枕→不二山頂滞在記

萩原朔太郎の水族館→蛸親爺

坊ちゃん→就職運動酩酊記

岡本かの子の鮨→魚増

ゴーゴリ→自己発見セミナー

Z(ツェット)氏のけしきは、忘れました。芥川龍之介あたりだったと思います。

私のやり方は、かなり遠回りで、それなりに人生と引き換えの部分もあるから、おすすめはしませんが、また、最近聞かれることが少なくないため、まとめてみました。過ぎ去った過去の話ですね。

私の書いたものは、私小説が多く、それは自分から離したい思い出が混じっていて、一度書いたものは、読むことがありません。

これを文芸的な精霊流しと呼んでいます。

今一つのことだけを流すのではなく、作り話に混ぜ込んで流すわけです。

心情を比喩と風景描写と仕草で描くのが小説。

陳腐なシーンにすればするほどリアリティは薄れる。人の想像力なんて大したことはない。
深刻なシーンの時に、全然違う事を(悠長な事を)いれるとリアリティが増す。

感傷に浸っていいのは、書いているときだけ。

小説にしろ、哲学にしろ、『書きながら考える』ことをしていると思います。

頭の中にあることや、世間の情報を文字を用いてまとめる作業ではなく、文字を書くことにより、書く前には頭になかった言葉が生じるわけです。

頭が元気なら、このような超克が起きるわけです。

私の小説は、物語も作りませんが、「人間」を描いていないですね。書き割りのコント劇の役者を描いているだけですわ。

音楽は人を昂揚させるもの。
小説はカタルシスを与えるもの。
物語を読み終えると、人は、なにか人生の経験を積んだような気になる。

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