見出し画像

ダンス素人の見方⑥ 水越朋ソロダンス公演「濁りに舟」

水越朋ソロダンス公演「濁りに舟」
2024年2月8日(木)~11日(日・祝)
東京都中野区「水性」、11日午後二時。

特殊な会場を活かして、音楽効果も含め、ジョン・ケージ的な問題意識を出している。上演前のガヤを録音してループに使う、ガラスドア越しの外の通行人を見せる、街頭から直接会場に入れる入り口、外部の物音や光が漏れ入ってくるなど。

やや廃墟じみた床、旧クリーニング屋の道具と思われるハンガー掛けをうまく使う。古い机やたらい、レトロな電灯傘などの道具立て。
踊りのテーマとしても日常と身体感覚の関係性を考察してあり、知的な舞台だ。

ややもすると退屈と受けとられもする、「物品」(特にハンガー掛け)を操作するという日常的な動作を、しつように反覆するなど、観客を信じていないとできない構成だ。洗濯物という主題は労働とも家事とも取れる。併せて日常。

わたしたちは機械化された便利な生活に適応するため、水たまりに足を浸す、という子供の頃なら当たり前にやっていた程度のことさえ、遠く離れている。今の子供は幼くしてすでにそうかもしれない。身体の発する声から離れていることは、自分の身体を道具のように扱う習慣であり、さまざまな病理現象の遠因となっている。かたや機械的な動作は知らず知らずに「選択」=「強要」される。これが日常。

ピアノのやや大仰にドラマティックな響きが、日常と内面への沈潜の区切り目をつける。シャッターを下ろす、という動作が閉鎖と遮断を強く意識させる。よく練られた演出。

抑圧された身体の解放としての「踊り」。目的を持たない手足のふるえ、さまよいを、とらえ返して、次第に形にしていく。これは確かに舞踏でもコンテンポラリーダンスでもなく、とりあえず広義のダンスとでも言うしかない。手の指、足の指に発信源があり、そのはざまで揺られる胴体たちがどう変容するか。足の指と太ももは特徴的で、大地を「踏む」のでなく「離れる」ことに注力する。そこで生じる浮遊感。手指もつかむようでいて、じつは肩から「流れる」ことが目当て。崩すために積み上げ、崩れたものでまた積み上げる。音効や小道具と踊りとで、水のモチーフが一貫している。水は作業から散歩から体内へとつながる。湿ったまま乾燥していない服から、読み取ったこと。激しくもものぐるしい何か。

動物性の解放は、「エヴァンゲリオン初号機暴走」的な、猫のような、猿のような、趣があり、多少エロティックだったり、意外と攻撃的だったり、気ままに自罰的だったり、我知らず遊びにのめりこんだりする。爪先立ったり、胴がうねり、空気をねじるような歩き方は、見る者の目を見張らせる。長きにわたって培われた技量が傑出している。たまさか上空を飛ぶ飛行機の音も不穏に聴こえてくる。

だが踊りが非日常として、得てして見世物的に受け取られたり、気晴らしに終わってしまうこともある。だから、踊りという営為を日常に対してどう位置付けるか、という枠組みを提示することが求められる。言葉の説明だとたいそう図式的になってしまうが、それが現前するパフォーマンスとして目の前にあるときは、今そこにあるかけがえのない生々しさが、単なる思考とは、異なる。

やはり、最後は、祈りとも願いともいえることが出てくる。ライトを使い、影を躍らせる。自分がその場に開いたものの中身を確かめるように、何度も。すがるように抱く。踊ることはこの作者にとって灯なのだ。観客が見たいものもそこにあるし、あったが、出演者はシャッターを開け、その先へ出ていく。街頭の音が一層はっきり聴こえてくることの作用。元の日常がほんの少し変わって見える、といいな。ただ体を動かすことがもっと豊かで、楽しく思われるはずの世界。まだそうではないけど、そのようになってほしい世界へと、われわれも出ていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?