ダンス素人の見方③ 柴田 美和『Victorious Cupid』

ヨコハマダンスコレクション2023 【ダンスクロス】
柴田 美和『Victorious Cupid』
2023年12月04日(月)
横浜にぎわい座・のげシャーレ(小ホール)

思った以上に直截な表現だった。今のパレスチナ・ガザの状況を我が事として受け止めた表現だ。

まずは休憩時間にロビーでいきなりラップ・ミュージックがかかり、サプライズなヒップホップ・ダンスのパフォーマンス。客はその場で立ち見の見物。ラップは日本語できわめて直接的に社会批判の内容の曲。最近のアーティストか? 柴田はラッパーの身ぶり手振りを真似しつつ、客を挑発したり、トイレやエレベーターに入るふりをしたり、イタズラ小僧のような表情で動き回る。ステージと客席を隔てる見えない壁を取り除く試み。最後は会場へ客を招き入れる。

会場は一転して殺風景。
座席は一面からまっすぐステージを見下ろす配置。雑踏の音の中、白人の男が何やらイライラしているが、いきなり客席を銃で撃つポーズ。暗転。床に倒れている美和。撃たれたのは自分だったのだ、という思い。苦しげに起き上がり、痛みやいろんな感情を呼び覚ます。音響は、グレゴリオ聖歌のような荘厳な響きが徐々に高まっていく。客席へ何かを訴えようとするが、見えない力で何度も後ろに引きずり倒される。怒りや嘆きの感情を、表情と、さまざまなマイムで表す。石を、投げる。全力で。やる方なく、シャドウ・ボクシングをする。仮定の誰かに話しかけようとするが、言葉が通じず冷たく突き放される。悲しみと当惑。舞台をあちこちへうろつき、見えない誰かを見つけては、優しく語りかけるように、ハグするポーズ。やがて疲れはてて舞台中央で崩れ落ちる、項垂れて伏したその上に白紙がひらひらと舞い落ちる。死者数を伝えるニュースだろうか。一枚、二枚、やがてたくさん。暗転。柴田は消え、轟音と、白紙の束の上を、血と火のように真っ赤なライトが照らし、次第に大きく広がる。

白人の男が現れガン型の送風機を客席に向けてから、白紙を風で跡形もなく吹きはらう。暗転。蛍光灯ライトがぐるりと並ぶ中で、柴田が舞台を円を描いて延々と走る。動きにあわせた蛍光灯の明滅がある。ランニングと明滅はゆるやかに速度を増していく。故意に冗長に引き延ばしたかのような展開。やがて中央で止まり、上体を揺らし、頭を振り回す動き、次第に激しく、しかし精確に。旋回する苦行の瞑想。

真っ白い光に包まれ、柴田は中腰で立ち、天を右手の指で指す。しかし左の指も天を指し、左右の指がお互いを比べあうような動きが錯綜する。腰を落としたまま、両腕がさまざまに上下左右し、きわめて精確微妙な動きを見せる。複雑さが加速する一方で、磁石が吸い付くような止めが入る。なめらかだが明らかにメカニカルな動きだ。ダンスとしてはここが最も完成度が高く、本来はこれが核にあったモチーフなのかもしれない。今回のステージの文脈に置かれると、これは情報や価値観の錯綜により混乱が増していく情景のように見える。次第に追い詰められていくような息苦しさ。最後、水死したオフェーリアのように、祈りの形で息絶える。暗転。

やはり、これでは終わらない。柴田は両手に抱えた白紙を一枚ずつていねいに、規則正しく並べていく。ライトが紙を墓標のように白く浮かび上がらせる。犠牲者への悼み。柴田は客席に英語で何事かを語りかける。世界で今何が起こっているのか、imagineできるかと問いかける。ラスト、フランス語?で何かの決まり文句を繰り返す。一度だけ日本語で「まだ、だいじょうぶ」。言葉による明示的な説明は、日本人に対しては抑制してある。英語圏の人にはそうではないだろう。暗転。終演のあいさつ。スキンヘッドの大きな白人の男とともに、彼の手を握って。こわもてだけど本当はナイスガイなんだよ、とでも言うように、優しく。終始シリアスで険しいテーマだったが、傷つきやすさの奥にあるさりげない優しさが、パンドラの箱の底に残った希望だった。

パーソナルな体験が否応なくインパーソナルなことに巻き込まれてしまう現代社会。「問題」は陳腐化され、イメージはステレオタイプ化される。一方でとらえられた事実はシンプルだし、そうでなければ伝わらない。「問題」はたしかにそこにあるが、それを情報としてではなく、客席に「体感」させるには、ディテールを身体化する契機を演者が作り出せるかどうかがカギだ。この舞台はイスラエル滞在中の経験が柴田に「作らせた」という面もあると思われ、「ここをこうすればもっとよい」とか言うことができない、「この時こうであるしかなかったもの」として存在する。特に日本のように「アート」が枠の中に入れられている国では、表現することをためらわせる要因が多い題材だが、それと向き合う真摯さと思い切りのいい率直さ、必要な衝迫を失わないままでかつ切実さと危機感を観客に共有させようという工夫とひらめきが随所に見られる。照明や小道具、音楽など総合的に組み立てられているが、「質の高い作品が見られてよかったね」では済ませない、これは「わたしたち」の出来事なんだと、心揺さぶるものがある。

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