水越 朋&南 阿豆「某日」感想

アトリエ第Q藝術にて『Dance Vision 2022 DUO』水越 朋と南 阿豆の「某日」を見る。

僕は単純なんで、踊りを「固い・重い」か、「やわらかい・軽い」で分類してみるくせがある。今回は二人が意識的にめいめい「固い」踊りと「やわらかい」踊りを受け持っていた。もちろんもともとの素質がそうなんだろうけど。南阿豆は「固い・重い」しかし「熱い」そして「痛い」踊り。水越朋(今回初見)は「やわらかい・軽い」そして「日常的な・さりげない」「平温・平穏の」踊り。もちろん両者とも足の指など尋常ではない動かし方なんだけど、あくまでコントラストを強調した演出。ゆるやかに円を描いて両者が舞台上を経めぐりながら、あちこちに散らばせてある石と関わり合う。こういういわゆる舞踏は、コンテンポラリーダンスと比べて、はるかに難解で、見る側の集中力と想像力が試される。ペアだからユニゾンで動くとかは一切ないです。二人を同時に視野に入れて、それぞれの動きと相互の関連性を、目だけでなく意識で追うのはなかなか難しい。

南は体幹を使って、目立たないように重心を移動させる技を使う。古武術とか柔術とかに共通する技術だと推測します。あたかも透明な板に挟まれた動物のように、あるいは見えない相手とレスリングをしているのか、見えない縄で緊縛されているような、激しい葛藤のイメージ。水越は、日常の動作をモチーフにしたマイム的なものを始点に、軽やかに伸びやかに放心を発揮する。石ころとの関わり方で、水越はたわむれるように、南は剣山のような障害物を踏み越えるように挑んでいく。これは両者の「現実」への対処が反映されていると読む。

次に南は赤ん坊のポーズへ。水越は無心に童女の遊びを続ける。このステージは「子供の領分」、善かれあしかれ無垢な「幼児性」をわれわれは再獲得できるか?がテーマだと感じます。さらに回転する動きを通じて、徐々に南が分泌した「毒」なり「圧迫感」が、石を介して水越にも浸透していく。しかし水越は独自の処し方で、これをもまた巧みに肩から上腕へ「逃がして」いく。そういう相互影響で、石を舞台の真ん中に積み上げ終えたところから、互いにかなり活発な踊りを「踊りあう」という展開になった。ジャズで言ったら4バース交換とか。そういうエンターテイメントにも通じるような、ダイナミックな動きの披露目。南がここまで自在な動きを解禁したのを見るはひさしぶりです。

こういう腹の底から練り上げていくプロセスを見ると、踊るって無条件に素晴らしいと感じますね。ま、それによって幼児性を再び大人としての自分の中に、呼び覚ますことができたのかは、微妙ですが。われわれは大人になると金の分配とか、メンツみたいなしょぼいプライドとか、そういう厄介ごとを抱えて、しかも自分のそれだけでなく、「他人の」それと付き合っていかないとならんわけです。「デカい顔したい」「他人にいい顔したい」とかに、めんどくさい理屈をくっつけて正当化したり、システマチックに整備したり。子供はストレートに出すからめんどうくさくないんだけどね。野蛮だけど。今回のデュオはいわさきちひろの最良の部分までで、「恐るべき子供たち」「芽むしり仔撃ち」という領域までは滲出してこなかったかな、と。だから「いいものを見た」であって、「すごいものを見た」ではないです。

何にしても、特筆すべき才能と特色を持った二名には違いない。

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