私が服を好きになった理由

#私が服を好きになった理由  素敵なバトンですよね。先人たちの文章から溢れ出すファッションへのパッションを眩しく見ていたところ、ねこぱんさん(@catandloaf ; cat loafをねこぱんとするセンス!)からバトンを頂いてしまいました。お引き受けしたはいいのですが、適任なのかどうか…。初めにお断りしておくと、僕はファッションを生業としているわけでもなければ、可処分所得をほとんど服にぶっこむという生き方をしてきたわけでもありません。服に人生を救われたわけでもなければ、ファッションへ引きずりこまれる経験をしたというわけでもありません。ではなぜ夜々服について呟いているのかというと、何故か服というものが好きなのですね。という事情から、服を好きになった経験というのは書けませんので、どうして私はかくも服に惹かれるのかということをつらつら書いてみたいと思います。僕が書くとどうしても硬くなりますし、異色のものになると思いますが、どうぞご容赦ください。


きみは空を見上げるか。高校生だった頃、ある友人が僕に尋ねた。高校生にもなると周りに一人や二人、先に大人になっていく人間が出てくるものだが、彼はそうした一人だった。誰より早く煙草を吸い、誰より早く女を知り、誰より早くコムデギャルソンを着ていた。僕は普段は彼を然程羨ましいと思わなかったが、その言葉を聞いた時に強く嫉妬したことを思い出す。世界は変わらない。ただ、彼の世界と僕のそれは違う。僕はあるものを見ていなかった自分を恥じた。

僕にはセンスがない。何かを選ぶことは苦手だ。凡庸さを露呈させる。空を見ないことは気付かれずに生きていけるが、服を着ずに生きてはいけない。なぜあの服でなくてこの服なのか。纏う服は意味を持つ。人にとって他人は意味の集積だ。SNSかリアルかというのは本質的な違いではないのだと思う。ただ情報量が違うというだけの話で、人は自分が見ているもので判断する/されるものだ。服が好きだと言ったが、服がなければいいと思うこともよくある。スティーヴ・ジョブズがいつも同じ格好だったという伝説がある。おこがましいが、よく分かる話だと思う。人間は自由の刑に処されている、とサルトルは言った。

我々は意味の中で生きている。パウル・クレーは1921年から10年間、ドイツの建築・造形の専門学校バウハウスで教鞭を取った。その際の授業ノートが残っている。

人の呼吸は視覚的な線ではない。しかし、視覚的な線をもってその対比物が作れるということを上の一葉は言っている。意味の造形化。意味の造形化は、造形の意味化を含意する。つまり、リズムを表すことができるようになった線は、リズムを表すものとして見られるようになるということだ。線は意味を持たないが、それが分節化されることで意味を持つようになる。

我々はいまや、あらゆるものが意味を持つ世界に生きている。特に人が作るものはそうであって、人は花がわからないということはないが、わからない花の絵というものはある。なぜ花なのか。なぜこの色なのか。なぜこういったタッチで描かれるのか。なぜああではなく、こうなのか。

意味を持つものとして見たときに、服はとても面白い振る舞いをする。美しいものも、面白いものもあるが、あるときクールだったものが1年後にそうでないものになっていたりする。それを単なる所与として捉えてもいいのだけど、なぜそうなのかということが知りたいと思う。なぜあれはクールで、これはクールではないのか。美の基準の変化なのか、社会の変化なのか、身体やジェンダーに対する感じ方の変化なのか。服において、変わらない価値基準というのはあるのか。

そういうことに頓着しない人もいる。それはそれで結構なことだと思うけど、世界の別の部分を見るというか、空を見上げる生き方があると知ることは意味のあることだろうと思う。世界は変えることができないが、世界の意味は変わりうる。

音楽や絵画について書かれたものはたくさんあるのに、服についての理論付けというのは難しいもののようだ。言葉でその意味を捕まえることが難しいけれども、なしで済ますことができない、この軽くて得体の知れないメディアに興味がある。自分が服に惹かれる理由はこんなところかなと思います。

あとは、単純に、理詰めでモテたいみたいなところもなくもないのかなあと、書いていて思いました。

長文のわりにこんなオチですみません。。改めて考える良い機会になりました。機会をくださってありがとうございます。

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