Raf Simons インタビュー

ラフシモンズのインタビューについてHYPEBEAST経由で知ったので、自分が面白いと感じた箇所を載せておく(大部分がKvadratとのコラボレーションのことだったので、全て読まなくても良いと思う)。

http://www.wmagazine.com/story/raf-simons-kvadrat-2017-collection-new-york-art-dog

https://amuse-i-d.vice.com/raf-simons-material-boy/

"Sometimes I’m scared to talk about it because people can also think you’re pretentious when you always connect to art and you’re not in the art world. But I cannot explain it. It’s something I am connected to since I was 16. It’s like breathing air, or drinking Coke Zero. It’s a daily thing, an automatism."

「時々アートのことを話すのが怖くなるんだ、アートとずっとつながりを持ちながらアートワールドの住人じゃないっていうのは、気取っていると思われるかもしれないからね。だけど説明できない何かがあるんだ。僕はアートと、16歳の時からずっとつながってる[自然ばかりの環境に育ったラフにとって、16歳の時、Jan Hoetのキュレーションしたベルギーの民家でアートが見られるというプロジェクトに行ったことが、真に文化的なものとの初めての接触となった]。息をするのとか、コークゼロを飲むのとかと同じようなもの。日常の一コマで、無意識的なものなんだ。」

"In fashion, things are not so much about the process or making it last. In fashion, they would actually prefer it doesn’t last. It was a very different kind of mentality when I was at Jil Sander, but it also worked against them, because people don’t really want it to last anymore. They say that they do, but it’s not true; everybody constantly wants something new. It’s so in people’s mentality of not only buying products, but even seeing things and consuming information. They don’t look very long anymore; they look, and they go already to the next thing."

「ファッションにおいては、問題は過程とか、長続きさせるとかいうことはあまり問題にならない。ファッションにおいては、長続きしないものが好まれるというのが真実だ。これは僕がジルサンダーにいた時のメンタリティとはかなり異なるけど、ジルサンダーみたいなブランドにとっても、このことは当てはまる、だって実際人は、長続きすることは求めていないんだから。口ではそう言っていても、それは本当じゃない。皆常に何か新しいものを欲しがっている。人の感覚っていうのはそうなってるんだ。何かを買うっていうだけじゃなくて、ものを見て、情報を消費するっていうことに関してもそうだね。何かを長いことずっと見てるっていうことはもう無い。見て、もう次のものに行っているんだ。」

あとは、自身が若かりし頃ヘルムートラングのヘッズだった経験を踏まえて、カルバンクラインはハイファッションだけではなく、例えばアンダーウェアを通じてキッズにもアクセスできる(ディオールとは違って)という利点について話していたのがまあ意味ある情報だったかな。あとスタンスミスの紐をパラレルで結んでいる?のも気になった。


 以下は蛇足だが、少し思ったことを。最近Twitterをほとんど見ることがなくなっていたんだけど、SUKEBENINGENさんのツイートだけは見ていたんだよね。あるツイートで、彼はアートな服がありうる可能性について、それが服の他の可能性をスポイルするものではないと言っていて、なるほどと思った。つまり、アートでない服もあって良いが、アートな服という可能性を追求するということも必要。これは納得がいく。

 氏は他の最近のツイートで、ラフのメイプルソープの写真を使ったピースについて、その安易なアートの使用に批判的だった。この批判の眼目はどこにあるのか?おそらく氏が言いたいのはこういうことだと思う。写真を貼り付けた服たちは単なるアート風味であって、アートのイデオロギーを実現した服ではない。アート風味な服は、アーティな装いを服にまとわせることによって、その権威を不当に簒奪している。

 こういったこともあるのだと思うが、ことラフシモンズのピースについて、批判が的を得ているかは疑問が残った。というのはまず、服がアートでありうると同時にアートでないものでありうるように、アートはアートでありうると同時にアートでないものでもありうる。これは語義矛盾のようだが、ことはアートが何を意味するかに関わる。氏の発言を見ていると、アートはまず技術に、そしてイデオロギーに関わるものであるように見える。つまり、①アートは知覚の最先端を拡張する技術の産物である、あるいは/また、②知覚を通した認識の最先端を拡張するイデオロギーの産物である。イデオロギーというのはデュシャン以降の産物なので、少なくともアートにデュシャン以前のものを含めるのであれば、全てのアートは②を満たすわけではない。だから、②を満たすものをアートであるとするなら、アートでないアートもありうるということだ。

 ここで、SUKEBEさんがアートな服という時にイメージされているものは、②を満たすものであるというふうに見える。であるけれども、インタビューを見ていると、ラフシモンズがイメージするアートというのは、もっとロマンティックで、即物的なものであるように思える(インスピレーションについて、彼はスーラを引き合いに出していた)。ここで、ラフのアートに対する認識の浅さを批判することはできるかもしれないが、それが非倫理的かは別問題であると思う。というか、全てのアートがイデオロギッシュなものであるという理解は、服を矮小化して語るのと同じように、アートを矮小化するものではないか?アートは(狭義の)アートでないものであっても構わないのではないか。ラフシモンズにとってのアートは、明らかにそうしたアートも含むものであるのだろうと思う(まず、メイプルソープという対象の選択がロマンティックだろう)。ラフはアートの特権性の持つ力に気付いているけれども(彼はアートによって「気取っていると思われることを恐れている」)、ナイーブにアートに惹かれているように見える(彼にとって、アートは「息をするようなもの」、「日常的で、無意識的なもの」である)。そして、もしそうであるなら、そのこと自体を責めることはできないだろう。

 SUKEBEさんは、似非アート服が、真のアート服を実現することを阻害することについて語っていた。これがどの程度真実かは、業界の内情を知らない僕にはわからない。アートにおいて実現されるようなイデオロギーを、服というメディアを通して実現することができれば素晴らしいことだと思う。氏の活動は、その実現の条件である下部構造を整えるための啓蒙活動といった向きがあるのだろう。しかし、アートな服の実現のために、いわゆるアート風味の服の存在理由を奪うことができるのだろうか?それは疑問だと思う。氏が言うように、服はアートなものでなくとも良いのだから。

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