恥ずかしい思い出はいつまでも恥ずかしいまま

恥ずかしい意味でのしんどい思い出っていつまで経っても恥ずかしいままで消化されないよねっていう話

僕の中で年に数回フラッシュバックする思い出がある。
それは大学生の就活の時の話
僕はとある会社の選考を受けた、というか適当に見つけた会社説明会がたまたま一次選考を兼ねた実質一次選考のバーターという形の会社説明会だったという方が正しいのだが
まずその会社というのは、業界としてはアミューズメント関連という事で、人を楽しませる事が会社の理念というかコンセプトとなっている事がざっくりと分かった
そして選考というのがざっくり言うと、グループに分かれて人を楽しませる方法を考えましょうという内容だったのだが、まずしんどかったのが最初に自分のあだ名を考えて発表し、お互いをあだ名で呼び合うという事であった。
しんどすぎる。
まず初めて会う見ず知らずの他人とあだ名で呼び合うなど、カンストした対人スキルを持ってる人間でない限りする事もないだろう。この時点で僕のしんどいという感情は測定不能なレベルにまで達しそうになった。
そしてあろう事か、その会社の人事の人にまでそのあだ名で呼ばれる事になった。そして不幸にも僕はその一次選考を突破してしまい、二次先行に進んでしまった。二次選考は一つのテーマについてのプレゼンだった。プレゼン資料は分からないなりに何とか期日までに完成させ、本番を迎えた。
プレゼン自体はその会社のオフィスの中の小さな応接室のような場所で、僕と人事の一対二で行う形式だった。大きなハプニングもなく無難にこなし、最後に総評が行われたが、その総評でも自分の名をあだ名で呼ばれしんどい感情は有頂天へ達した。
心無しか、いや、確実に人事もあだ名で呼ぶ行為に小っ恥ずかしさを感じていたのだろうか、僕のあだ名言う時だけ完全に感情を殺して言ってるのが口調でよく分かった。
いかに他人同士のあだ名の呼び合いがしんどいものであるかを痛いほど学ばされ、その代償を払うかのように未だにその思い出がしんどい思い出のままフラッシュバックするのである。
辛い思い出というのは時として人生のその後の糧になり、良い思い出として残る事があるが、恥ずかしい意味のしんどい思い出は決してそうなる事はない。



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