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小坂井敏晶講演『教育という虚構』ー偶然は世界を変える火花であるー

こんにちは。今日は僕が一目惚れした小坂井敏晶さんという方のyoutubeでの講演を拝見して(ものすっごい感動したので!)その紹介をしたいと思います。まとめたい!
https://youtu.be/7jlqCjHi8Yo

講演者である小坂井敏晶さんは、社会心理学者で、パリ第八大学の心理学の准教授をされている方です。有名な著書に『民族という虚構』『責任という虚構』といったものがあり、昨年度行われた東大の国語(理系)でも、その著書(『神という亡霊』)が取り上げられ、話題になりました。
僕は責任という虚構とその現代文の問題となった部分を読んだのですが、とにかく衝撃を受けたので皆さんにも是非読んでみてほしいです。

さて、今回の講演では、学校制度の真の役割について述べるという形で始まりました。

皆さんは「学校の役割」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。個性の伸長、国民の育成、勉強を教える、学力を向上させる、様々にありますね。
日本の教育基本法を見てみると、教育の目的はこのように謳われていることが確認できました。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育基本法 第一条(教育の目的))

となると、学校の役割は、人格の完成や国民の育成、といったものかな?って想像できますね。

しかし、小坂井氏はそれはあくまでも「表向き」であると言います。そして「学校は格差を正当化する機能を持つ」と宣言するのです。
また、その格差を正当化する機能は近代社会を成立させるために隠蔽された重要な機能であることを主張します。

一体どういうことなのでしょうか。

小坂井氏はまず、能力の違いを生む原因について解説します。
人間の能力の差を生む原因は主に2つあり、①遺伝によるもの②環境によるものがあります。
教育社会学では②の考えを重視することが多いのですが、それは遺伝は変えられないけど環境は外部から介入して変えられるよね、という考えが基にあるそうです。

しかし、それは大きな誤解である、と小坂井氏は言います。

環境は外部から変えられることはできても当人にとっては選べない、「外因」でしかない。遺伝も、父と母の生殖細胞から1/70兆の確率で我々は生まれ、偶然の産物でしかない、と言うのです。

外因/内因ですが、簡単に言うと自分のせいなのか/自分のせいじゃないのかという考え方でいいと思います。
環境を変えれば変わるんだから、環境という後天要素は内因だよね、と考えられていますが、実は遺伝も環境も外因であり、能力は偶然の産物です。

さて、この前提をもとに学校制度について考えていきましょう。

近代日本の学校制度では、金持ちは金持ちが行く学校、貧乏人は貧乏が行く学校、それぞれどこに進学するか、というようにコースが分かれていました。これにより、金持ちの子はまた出世し金持ちに、貧乏人の子は貧乏人、という格差構造ができていたわけですね。
それはおかしい、みんなもとは平等、同じ潜在能力を持っている人間なんだから一緒じゃなきゃ、とすべての国民に教育の機会均等が与えられた社会が戦後日本の学校制度です。戦前と戦後で学校制度はこのように変化しました。

しかし、1970年代あることが発覚します。
すべての国民が同じコースの教育を受けても、階級構造が再生産され、実質的平等が得られない、ということです。
簡単に言えば東大に行く子供の親は医者と弁護士と社長、というやつです。
このように、社会において、金持ちの子はより高い能力を持ち、貧乏人は能力が低い(これをアメリカ、イギリス、フランスの大学進学率等のデータを用いて説明しています。)ことが明らかになりました。

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この能力差は決して資金の問題ではなく、その環境が原因です。資金の問題なのであれば奨学金という制度が解決してくれているでしょう。

この時学校制度は如何に機能しているのでしょうか。学校は、客観的平等、形式的平等さえあれば潜在的能力はみな同じであることを前提とし、その後生まれる能力差の原因は個人に帰結するという論理を成立させるのです。

つまり、本来は遺伝・環境という外因により能力差はあって当たり前なのに、現実では、その生じる差は個人の責任と学校はしています。

平等な自由競争下で公平に評価され努力による上昇が可能だと考えられる社会では、自分の無能は自己に責任を求めるしかありません。
学校制度は一見、平等な社会を作るためのイデオロギー、方策を示していますが、実際は格差が存在する社会構造を固定化する方策だったのです。

では、格差がない社会というのは可能でしょうか。
小坂井氏は正義論の検討を通し「否」と答えます。我々は格差のない社会では生き続ける事は出来ず、「平等」・「自由」という嘘をつき続けながら生きるしかない、と。

正義論を検討する際小坂井氏は4つの類型を見ていますが、ここでは省略し、小坂井氏の著書でも触れられているジョン・ロールズ(John Rawls)の正義論を見ます。
ロールズは、能力は偶然により作り出されるものであるということを認め、能力は個人の内因ではないことから、労働の対価としての富の請求権を否定します。しかし、それでは金持ちの労働意欲がそがれてしまう、つまり富の完全平等分配はできないので、労働意欲を削がないように没収し、貧しい人への再分配を行うべき、ということを主張します。
そういうわけで、その結果生じる格差というものは、個人に原因があるわけではなく、ただの手段です。貧しい人たちは自分たちの能力不足に対して劣等感を抱く必要性は一切ありません。だって遺伝や環境の違いで偶然できてしまった差なんだから。

しかし小坂井氏はこのように反論します。
次の通知書をご覧ください

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こんなことを言われて、受け入れられるでしょうか?無理ですよねw
このような状況下では、自分の無能の原因を社会に求めることもできず、自己防衛の手段を失ってしまうのです。

近代以前の格差、つまり身分制というものは、神〈外部〉によって支えらえ、神〈外部〉が秩序を保障していました。しかし、近代になり、神〈外部〉の存在が崩壊し、格差を正当化していた身分制度が崩壊します。これにより、貧富の差を正当化するための自由と平等を社会は宣告したのですが、これにより、平等を求める動きは加速します。

我々人間には本質的違いは存在せず、みな平等だとされるがために、人は他人と比較し、優劣をつくりだします。その劣等感を否定するために、小さな不平等を断罪するのです。不公平なんて許されないから。

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とこのように、僕らが生きる社会を小坂井氏は叩きのめしました。(僕は『責任という虚構』でさらに叩きのめされ、人生に対する大きな無力感を味わいました。)
遺伝も環境も偶然も外因である、しかし、社会は平然と嘘をついている、なんて言われたら、あまりにも救いがありません。袋小路です。

しかし小坂井氏はここで素敵なヒントを授けてくれます。それは「偶然の意義」に気がつくこと

正義論では、普遍解、こうある「べき」というものを考えますが、何が真理か何が善か、何が美かといういわゆる真善美というものはそれを僕らが受け入れて初めて認められるものです。どちらが正しいのかということは多と少のせめぎ合いから生まれるものであり、時間と共に流転するのであって、普遍解は存在しません。

つまり、多様性が世界を変えていく、ということに希望が見いだせるのではないでしょうか。それはいいアイディアが生まれるといった、既存の価値観で認められるものなんかではありません。かつて黒人解放運動やフェミニズム、ガンジーといった反逆者達が「悪」から「善」という価値観の転化を起こしたような「本当のイノベーション」を指します。その転化をもたらすのは、「偶然」であり、偶然とは既存の思考枠を変化させる火花となるのです。

小坂井氏はこの思考枠の変化が社会のシステムを変えていくためには必要だと説きます。いくらいい制度ができようともそれは同じ思考枠で作られる限りシステムは変化しないわけです。

その変化のためには何が必要なのでしょうか
http://j-soken.jp/ask/2053 小坂井氏はこのリンクのお話から3つの教訓を導きます。
1つは自明の答えでも思考枠にとらわれていると気づかないということ。
2つ目は行動してみないと分からないということ。教えられてたり、指摘したとしても、思考枠にとらわれている限り気づくことはありません。
3つ目は答えを求めることが問題であるということ。無理な答えをあきらめた時、初めて袋小路からの脱出が可能になります。何か「答え」がありそうな問いへ「べき論」で考えてもそれは既存のシステムにとらわれた慰みにしかならないのです。

常識を変えていくためには紆余曲折が必要です。多様性が衝突して初めて、変化が起こります。偶然はその多様性を衝突させ、思考枠を変化させる力を持つのです。そして偶然は誰にでも必ず訪れます。

と偶然と多様性の秘めた力に言及され、小坂井氏はお話を終えました。

いや本当に素敵だった。
わりと本気で絶望してたんですけど、最後の10分は霧が晴れたようでした。
偶然が世界を変えていくんだよ、とのことでしたが、じゃあその偶然はどのように訪れるんだよっていうのも、ただ待っているだけでは来ないんだろうなって思いました。行動、つまり勉強しないとね。講義は受けられないけど。(今学期すでに複数落単決まってるのやべえよな…)

さて、教育という虚構では学校制度が格差を再生産させる装置であるということが説明されましたが、僕はこれを見ても、小学校の先生になるのをやめようとは思いませんでした。
それは、まあ無自覚でもやっていけるし、という本音が8割、ほとんどですね。だけど、それに自覚的でもやれることがあるんじゃないかなという希望も2割持てたからでもあります。
それは、やはり偶然への希望です。偶然とは例にでたような大きなイノベーションとか思考枠とか社会を変化させる偶然以外にもたくさん存在するでしょう。学校教育を例に考えてみれば、授業でその子が偶然発表したことが、偶然その子の人生に影響を与える可能性だってありますよね。そして、この偶然というのは子どもだからこそ起こる可能性が高いと僕は考えます。だっていくらでも変化する余地があるんだもん。だから教師たちはその偶然を期待して、決して意図することなんかできないけど、働きかけ続ける、そしてその瞬間を待ち続ける役割があるんじゃないかな、僕もそういう先生であれたらいいなと、ちょっとだけ希望を持ってこれからも勉強していこうと思いました。

また、小坂井さんの「答えのない世界を生きる」という本も気になってるので読んでみようと思います。

うまくまとめられず、稚拙で分かりにくいところだらけだけどまあ自分のノート代わりかつアウトプットの練習だと思ってなんとか自我を保ちます。


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