窓の向こうは濃尾平野

関ヶ原を下り垂井を過ぎると、私は毎度右手の車窓を眺める。我が故郷近江は四方を山に囲まれているから、どこまでも続く地平線というものが存在しない。しかしこの車窓の向こうはどうだろう。左手には飛騨の山並みが見えるが、右手には延々と空が、濃尾平野が、広がっている。

近江どころか、関西ではこのような光景は見る事が出来ないと言って良い。新快速で大阪へ向かってもやはりどこかに山が見える。大阪湾の先は確かに海ではある。しかし大阪湾を眺めようと思えば六甲山が若干目に入ったり、紀州の山並みが見えたりもする。延々と空が広がるという感覚を、どうも私は関西にいては得る事が出来ない。

そうやって色々と思うと、関八州の広さを一目で堪能したくなってきた。濃尾平野でも毎度々々車窓から眺める程魅力的なのだ。そして毎度々々豊かな気持ちになる。ならば例えば上越線の上りに乗って三国峠を下るとか、そういう事をしてみてはどうだろうか。それはもう素晴らしい光景が広がっているに違いない。いや、広がっていなければ困る。何せ窓から見えるはずのものは日の本一の大平野なのだ。それが大した事の無い光景なはずが無い。きっと興奮して仕方の無い、そんな光景が広がっているだろう。

そんな憶測を重ねていると、早も岐阜、一宮、そして目的地名古屋に着く。濃尾平野のど真ん中と言って良いこの巨大駅から祖母の家まで地下鉄で、と言いたい所だが、そこは歩き趣味の工楽ノ佑である、3時間程歩いて祖母の家まで向かう事にした。

今は祖母の家で風呂に入っている。3時間とは言えやはりやや長時間。こういう歩きを久しくしていなかったから、一寸疲れた。とは言えこれは嫌な疲れではなくて、満たされた後の疲れである。例えば昨日のような、そういう疲れではない。こういう疲れ方をするのは久しぶりな気がする。しんどいしんどいと言うのも悪くはないと思う。でもこの数週間はもう少し歩いていても良かったのかもしれない。

そうそう、栄の辺りを歩いていたら人に道を聞かれた。いや、私は後ろで髪を括っていて、更に作務衣を着ているという、如何にもけったいな、はっきり言って可笑しな格好をしている訳だが、どうも私は人によく道を聞かれるのだ。ニートをしているから外へ出る回数は一般人と比較して少ないにも関わらず、一年で平均して3回は道を聞かれる。中でも旅行先の東京で道を聞かれた時は驚いた。いやあ、道を聞いてきたご婦人は驚いたであろう。如何せん道を聞いた相手の話す言葉が関西のそれなのだから。とは言え道を聞きやすい雰囲気が私にはあるのだろうか。よくわからない。でも、面白いから良い。
読者の皆さんも作務衣を着た長髪の野郎を見掛けた時は遠慮無く道を聞いてほしい。スマホがあるので、大方案内出来ると思う。

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