楠本まき「赤白つるばみ・裏」を読んだ。~「ジェンダーバイアスはなくなった方がいい」とは、どう語られたのか~

この一文を読んだとき、心の中では正座して傾聴している自分がいました。

(前略)少女漫画でデビューして、描いてきた身としては、主に女性の作家が描き、主に女性の編集者が作っている雑誌が、主に少女である読者にジェンダーステレオタイプを刷り込む、というのは、とても悲惨で、許しがたい構造だと思う。少女漫画は、もっと少女の考え方や生き方を自由にするものでなければ、それは少女に対する裏切りではないか。たかが漫画に、そんなこといちいち考えなきゃならないのか、不自由なことだ、というのは筋違いで、もうすでに我々は十分不自由なところにいるので、それを遅ればせながら解放していきましょうという話です。

だってここには「私は私の読者を裏切らないようにする」という作家としての信念があるわけじゃないですか。

私自身は女性の心身で生まれながらも、少女漫画に育てられたタイプではなく、家の中に転がっていた週刊少年ジャンプを読んで育ち、いまもほぼそのまま生きてる人間ですが、それでもこの一文には打ち震えました。自分が尊敬する作者がこんな形で私たちに向き合ってくれていると知ったら、自分はどれだけ心強いだろう、とも。

と同時に、この冒頭のコマ画像を最初に見たときは「すげーこといってんなあ」と、思わず前後が気になって、掲載紙のココハナ電子版を遡れるだけ遡って「赤白つるばみ・裏」を読みました。また後日「裏」の本編にあたる「赤白つるばみ」も読みました。作家としてのお名前は存じていたのですが、不勉強ながら初めて作品を拝読させていただきました。

そもそもは今ネットで話題になってるインタビュー記事からたどり着きましたが、評価は人それぞれでいいんですけど、読んでみて思ったのは記事の理解のためにはまずこの漫画の情報があるのとないのとで、記事の読み方もだいぶ変わらないかなあと思ってこれ書いてます。

結論としては、きちんとした積み重ねがあってのこのセリフで、フィクション作品として登場人物の課題を解決するための1コマなんですよね。


「裏」で遡れたのは2018年8月号に掲載の第8話まで、冒頭のコマは2019年2月号第12話です。全部電子化してない……!! でも読んでみたら、あのエピソードを語るのにちょうどいい区切りだったみたいです。

作品全体のあらすじは、冒頭記事より引用させていただきます。

今「ココハナ」誌で連載している『赤白つるばみ・裏』は美大在学中に念願の漫画家デビューを果たしたサブカル新人漫画家ノエル子さんが、異端のカリスマ谷崎先生のアシスタントに通いつつ、自己のまんが道を模索していく、漫画家漫画になっています。

ややこしいんですけど、この「裏」はそもそも「赤白つるばみ」という作品の、登場人物や作品を共有するスピンオフです。ココハナ公式サイトなどで確認できる試し読み第1話は、この「裏」がついてないほうの「赤白つるばみ」側の第1話のため話が直接つながっていません。

【追記】この記事を公開した後に、裏じゃない方の「赤白つるばみ(以下、本編)」上下巻も読みました。こちらで描かれている要素も「裏」の作品理解にも大変重要な要素であると思い、当初の内容に加えてこのように冒頭【追記】と区別を設けて増やしております。文字数爆増。

さて、私が読み始めた「裏」の第8話は、新人漫画家ノエル子(ペンネーム)さんが、思いがけず大ファンである作家のアシスタントに呼ばれるところから始まります。なお、コマの女性とは別人です。

主人公の人物像の説明には、いくつかセリフを引用しましょう。まずは第8話冒頭、友人が関わった痴情のもつれ話をしているところ。

あの二股男、ナミ――っていうか、どうがんばってもそのほか大勢枠じゃん?
椿に全然釣り合わないし よくまあ そんな 厚かましく 自分に自信持ってるよね

さらに、大ファンの作家先生のところでアシスタントできると決まったシーン。

あんなデカダンの権化みたいな作風で デブだったり 顔面偏差値が低かったりしたら耐えられない!!
知りたくなかった!!って思ったらどうしよう!!

それを聞いていた友人に「前からちょっと気になってたんだけど」と人の価値は外見で決まると思ってないかといわれ、

エ? 決まるでしょ。
まーあとは才能とか年収とか総合スペックで決まるとはいえ。
だいたい見た目が9割かなー

さらに重ねて、「今の時代にその考えはどうなんだ?」という旨のことをいわれては、

なにそれ――ムカツク――
いや 音羽の言ってることは正しい。正しいけど!
自分は あんなキレイな顔の男の子でそれを言う?
私の方が よっぽど 容姿のコンプレックスなんていっぱいあって ブスだフツーだ よくて個性的だ ずっと言われてきて
日々努力してメイクやおしゃれに時間も労力も惜しみなく費やし!(学生だから金はたいして費やせないけど!)
まあなんとかOKって基準を維持してんのに
それなのにあの言い草は! でもまあ確かに思ってた!!このコには(顔で)勝ってるとか負けたとか思ってた!!
めっちゃ自分が恥ずかしいじゃん くそー音羽め……

のちの9話などでも別の友人の前で同じような話を展開してしまい、いずれも「今どきそれ?」と突っ込みをもらって反省します。

主人公は、己の考え方、特に容姿や年齢周りの価値観がなにやらよくないとは思いつつ、技術に伸び悩んで焦る中で「女はハタチを超えたら価値がなくなるから」と真顔で口をついたり、面と向かって指摘されればとっさに「そうはいってもそっちは顔がいいじゃん! 私はそうじゃないんだから! 世間がそういうから!」と反発してしまうような人です。

【追記】「赤白つるばみ」本編にて、ノエル子のキャラクター設定を確認しました。彼女は現役美大生という年齢ながら、その内心に「イマジナリーフレンド(空想上の友人)」を抱いており、そのことに対して少なからず周囲との摩擦、軋轢をもつ経歴でした。

彼女にとってイマジナリーフレンドがそこにいるのは当たり前だけれど、彼女以外の人にとっては当たり前ではない。彼女は、そんな周囲とのギャップの中で生きる一人です。

また彼女の友人らも一見どこにでもいる若者たちですが、たとえば色覚異常を持つために普通の人にはわかるはずの色が判別できなかったり、逆に普通の人にはみえない色がみえたりと、その人にとっての当たり前が周囲には当たり前ではない人たちです。

作中の演出からいっても、現在のノエル子の言動・価値観とは、単に作劇要素として世の多数派(とされる何か)心理を戯画したというだけではなく、彼女自身が世の多数派は持たない性質を持っているゆえに、それでも周囲になじもうとして、やや過剰なまでに多数派(とされる何か)の価値観を自分に適用しよう、迎合しようとする傾向にあるのだと推測されます。

そんなノエル子ですが、友人のひとりから「(世間を理由にするくらいなら)あなたはもう(漫画家として)発信する側なのだから、それを使って世間を変えていこう。」といわれて心に響き、自己の価値観に対して「自分は、今のままでは良くないんじゃないか」という思いを少しずつ強く抱くようになります。

内心ではこういった葛藤を抱えている主人公に、主人公自身が尊敬する作家である(ここでやっと冒頭コマのキャラクターの)谷崎先生と出会い、目の前で「ジェンダーバイアスはなくなった方がいい」と言わせる作品意図は明確でしょう。

主人公には、「染みついた己の価値観を払しょくしたいという思いがある(目的)」「でも心と頭が整理しきれず、理由をつけては考えないでいてしまう(葛藤)」といった中で物語が始まり、友人らとの会話の中でゆさぶりをかけられ、尊敬する相手が実は自分と似た問題意識を抱えていたと知り「やっぱり自分は考えていこうと、意思を確たるものとする(克服)」のです。

【追記】ノエル子自身が実はマイノリティな側面をもつせいで、多数派(とされる何か)の側から負荷をかけられた人生を歩んできたと推測されることから、その価値観から脱却する過程を描くということは、単に彼女が他者や社会への福祉に傾くという以外に、まず、自分自身をこれまで圧してきた価値観を自らの力=表現の力で打ち破ろうと志すまでの、彼女自身の救済の物語ともいえるでしょう。

淡々とした空気の中で、驚くくらいにてらいのないメッセージ性と、ストレートなキャラクター配置に読んでいても思わずおののきますが、なんていうんでしょうね、私、先日見てきた映画「翔んで埼玉」に通じる痛快さも感じるんですよね。

翔んで埼玉は、架空の日本を舞台に東京を頂点とする関東圏ヒエラルキーを描いたギャグ映画です。誇張をよしとするギャグマンガでも誇張の極みのような作品で、生まれ育った土地と隣接する土地住民との間で気が付けば何となく生じる引っかかり……摩擦……時にちょっとした蔑み、上下関係、まったくないといえます? そういう、日常では「まあ、いいか」と皆が見過ごしてみないでいるものを、誇張を良しとするギャグ世界に放り込んで調理してみせたのが、翔んで埼玉という作品です。

セリフ回しや展開の面白さ、ローカル知識を華麗な衣装を纏う人物らが大真面目に語るギャップの愉快さはもちろん、見えにくいけど現実にあるものを誇張した=みえる形に提示されることで、見る方が「あるわー!」「それ私もあるわー!」と指さすことで生じる気持ちよさ、快感があると思うんですよね。私は埼玉にも関東にも縁もゆかりもない出自ですが、自分や自分の周囲にある、ああいう土地がらみの引っ掛かりを思い出しては共感していました。

で、この「裏」では、主人公・ノエル子というキャラクター造詣を通して、「そういう子いる」「そう考えちゃうときある」「私もそう」と現実ではしばしばわずかな違和感にされて、うっかりすると蓋されてしまうようなものを「あるわー!」と読者に感じさせるから痛快なんですよね。

さらにいえば、これだけまっすぐな展開とノエル子の造形は、たんに読者それぞれの記憶や経験を想起させる以上の意味を含んでいるのではないか、と雑誌で読むことで感じました。

というのも、運命の悪戯なのか編集部の作為なのか知りませんけど、ノエル子が美しい友人を前に容姿コンプレックスをつつかれ葛藤している回と同じ雑誌上には、主人公である女性に「不倫した男と縁切るためには、あいての奥さんを見なさい。たいてい愛人である貴方より大したことない女だから」という旨のセリフがある不倫解消漫画が載ってるような状態でして……。

これは、ウジウジと不毛な関係に縁を切れずにいた主人公の女性に渇を入れる表現です。尻ぬぐいで会うじゃなけりゃ、きっと愛人である貴方が奥さんから見下されていたよ、そんな相手のことなんか気にせずスパッと切って忘れなさいって意味です、とフォローもしつつ……非常にバランス感覚の優れた漫画だなあと感心します。

さらに「裏」を読み終わり次のページをめくると、女性同士が婚活のために合コンでどうみせればポイント高いか考えあうギャグマンガが載ってることも。もちろんこれもギャグとして面白い作品です。

雑誌の外に目を向けても、ここ数年は少女漫画原作の実写映画は大変豊富です。少女漫画然とした「学園の王子」を集めてバトルロワイヤルするというメタパロディ映画が最近公開されましたね。これ自体に原作はないんですけど、あえて俗にいえば、まるで一国の王子のように高いステータスの男性に女性がほだす・ほだされるといった内容が、メタネタにされるくらいには世に飽和している証拠でもあるでしょう。

まあ、つまり、割と周囲はこういう空気の中で、あのメッセージを抱えて連載してるんですね。「赤白つるばみ・裏」という漫画は。

掲載誌ないし文化全体で言えば、ノエル子が当初抱えていた偏向にあえて乗っかるタイプの作品を展開しつつ、しかしノエル子の葛藤を解消させるこの「裏」という作品が存在することは、現実にノエル子のように悩む人へのフォローになります。この作品を読んでねと。翻って、この作品がなくなったら、その代打ができるような作品は少なくともこの掲載誌では、うーん、まあ、ない……かなあ。

以上を踏まえると、若さや容姿に過度な価値をみていたノエル子がやがてその価値観の枠組みそのものから脱する展開を描くことは、掲載誌の、もっといえば直近の少女漫画全体の潮流に対するカウンターを意図しているのだろうというのは、読んでいても真っ直ぐに伝わってきます。

【追記】ノエル子がああいう価値観にいたった理由とは、彼女にとっての当たり前がたまたま周囲にとっては当たり前でなかったゆえに、彼女の方がどうにかして周囲に合わせようと「みんなの当たり前を自分の当たり前とする」とした結果であることも、これらのメッセージを考える上で非常に重要な要素でしょう。

もろもろの状況下で放たれたメッセージについて、是非を問うことはもちろん大事です。件のインタビュー記事や、引用されているメッセージの是非について議論するのも世の中のためにも必要でしょう。ですが、そのメッセージがある種の条件下で発生したカウンターであることを意識して語られていることは、少ないように思います。

カウンターの是非を問うなら、そもそもカウンターを向けている相手は誰で、なぜこのカウンターを受けているのかということを深く理解しないままに仕掛けた側だけ論じても、本質を誤審してしまいかねない危うさを、ここ数日の話題の色を見て感じています。


もう一つ、あのコマを論じるにあたって大事な側面があります。

実際に口にするキャラクター「谷崎先生」は、刺激的なセリフをいう刺激的なキャラかと思うと、まあその通りなんですけど、もう少し繊細な描写が施されたキャラクターでした。

というのも、谷崎先生はとある理由により最初から名乗らず、当初ノエル子の前では「私は谷崎ではありません」と別人としてふるまうという奇妙な行動をとって現れます。

この谷崎先生の人物像については、直接のセリフより「あの先生はどういう人か」「どういう立場にあるのか」という他者や外部からの声で語られることが多いです。これも引用していきましょう。

第8話より、アシスタント依頼を電話してきた編集さんの谷崎先生評から。

あ――それと 谷崎先生、
作風からもわかると思うけど そのまんまの神経質で厳しいひとだから
言葉遣いとかくれぐれも気を付けてくださいね。

続いて11話。主人公であるノエル子が、編集者に漫画を見せたら「谷崎先生は2人はいらない」と言われて断られたことを雑談でふれたところ。まだ別人としてふるまう中で、当人がいった言葉です。

あ でも雑誌的に谷崎真珠は2人もいらないっていうのは本音だと思いますが。
1人でも多すぎるってイミで。

私の友達はみんな谷崎先生の漫画は(単行本として)持ってるのに? と驚くと、

まあ、だから、翻って
雑誌に特に 貢献してない、ってことです。
そうなんです。
読者アンケートも悪いみたいですよ。

この11話の中で、別人と偽っていたことが判明し、以降、谷崎先生は身分を明かして接します。

ここで話題の12話です。ノエル子がデビューに選んだ雑誌は、谷崎先生以外はめぼしい作家も作品もないデビューは簡単だろうと打算で選んだともらすと、驚いたようなコマを一拍挟んで、

でもその ノエル子さん的にこれといってめぼしくない作品群が
その雑誌の人気連載陣で 読者の求めているものそのものなんですよ

それを聞いて、だったら自分はその主流にはなれないと頭を抱える主人公に、

別に読者の求めるものに合わせて生産供給するのが作家の仕事なわけじゃないですから。
そういう人もいますけど それは個人の考え方というか。生き方というか。
ガーマ(注・作中の雑誌名)にだってそれくらいの包容力はあるんじゃないですか?
だから私を乗せ続けているし、ノエル子さんもデビューできたんですよね?

まあ「滅びろ」って思う作品もありますけど。

この流れで、おそるおそる「さしつかえなければその作品とは?」と尋ねられ、「ジェンダーバイアスのある作品は滅びればいいと思っています」と応えたあとに冒頭コマに展開します。

なぜ最初に身分を明かさず接したのかの本当の意味合いを察せられます。一部の編集者からは「神経質で厳しいひと」といわれ、当人もそういった評価を自覚しつつ、けれど上手く周囲にあわせて譲れず、向き合う相手によってはうまくいかないことも多いので、その自衛・妥協点として、仕事のアシスタント選びはちょっと過剰なくらい慎重にやっていると。

当人曰く、最初に他人だと偽る理由を「辞めてもらう人には作家本人とは対面しなかったままだったと思わせたい」とのことで。それつまり、新人と相性が悪かった時の拒絶反応が激しいと経験上知っていて、やめた後にそのイメージで吹聴されて困ったという経験を過去に何度もしてきたからでは……? と、別に書いていませんけどうっすら考えたり。

そんな人相手に、不思議と気に入られた主人公ノエル子さん。数日かけて仕事として関わる間、谷崎自身の口からでるのは「一部に確実な人気はあるが、必ずしも全方位に万全とはいえない作家・谷崎」像です。身分を偽ってるとはいえ、作家評の中身は嘘をいってるわけでもなさそうです。

うっかり身分を明かした後にも何かと掴みどころのなかった谷崎先生ですが、ノエル子が「この雑誌には谷崎先生以外にめぼしい作家も作品もないと思った」と、たぶん作中で一番過激な評価をぽろっとくだした瞬間、普段クールな谷崎先生が目を見開いて驚きます。

これは、通じる……? と。

冒頭のコマから続く一連の過激ともいえるセリフの数々は、表向きには主人公ノエル子の葛藤を解消するためのキーとして作用しますが、それを発する谷崎先生にとっては、本心ではあるが容易に明かせずにいるこの世界へと向けた言葉を、この人となら共有できると認識した証、カムアウトなんですよね。

谷崎先生がノエル子の発言に驚くシーンはふっと目が留まるコマで、見ていてとてもドキッとします。積み重ねが決定的になって、本心を出すようになった転換点です。淡々としたテンポの中でドラマが動く力を感じます。

話題になっている発言内容とは、回をまたぎ、キャラクター同士の親交を深め、慎重を重ねた末に発せられたものであることは、その意味や立ち位置を考える上にあたってとても重要な要素であると考えます。

加えて、日常的に接する人らには理解されにくいが、どうしても譲れないものをもつ作家が、日頃は表現物に込めているメッセージの意図を共有できる相手に直接出会うことの喜びを描くことは、主人公が内なる己の価値観と闘いながら新たな表現者として成長しようとする作品として、とても意義深いものを感じます。

再び引用します。

(前略)少女漫画でデビューして、描いてきた身としては、主に女性の作家が描き、主に女性の編集者が作っている雑誌が、主に少女である読者にジェンダーステレオタイプを刷り込む、というのは、とても悲惨で、許しがたい構造だと思う。少女漫画は、もっと少女の考え方や生き方を自由にするものでなければ、それは少女に対する裏切りではないか。たかが漫画に、そんなこといちいち考えなきゃならないのか、不自由なことだ、というのは筋違いで、もうすでに我々は十分不自由なところにいるので、それを遅ればせながら解放していきましょうという話です。

自分も、まがりなりにも同人誌でアマチュア漫画を描き散らしている身分です。この広い世界に自分の表現を投げ込み、ものすごい低い確率の中で手に取ってもらい、あまつさえ「楽しんでます」と言ってくれる方を見るたび、「私の作品を見出してくれたあの人たちに報いたい」と沸き上がることが本当によくあります。これは、私の中の、私の読者を裏切りたくないという思いです。

私は商業作家さんたちとは比べるべくもないミクロな範囲での思いですが、より広いフィールドで活動する人、長く活動する人なら、マクロな範囲と視野が相手になることもあるのでしょう。

自分の読者に(自分が思い描く)未来を見せたい。まあ()内はめちゃくちゃ作者のエゴだけど、でも作者のエゴを世界にぶつけるという「表現」という名のゲームが世にはあって、勝てば読者に受け入れられるし、負ければ読者は離れていく。大勝ちすれば世間の主流はこちらに寄ってきます。そういった勝負に常にさらされるのが、表現者というものです。

この漫画を読んだ後に「こちらの手札は出し切った。そちらは?」と突き付けられているように思いました。判定は読者側、実際に読んだひとりひとり、私の手にあります。自分がどう思うかは自由です。残っても、去っても、読者に勝敗はなく、誰も悪くありません。そもそも「やっぱり興味わかないや」で手に取らないのもよいのです。ただ作者のもとに勝敗が残るだけ。それは、表現の使い方として公正で、真摯ではないでしょうか。

読者数が経済力に反映される商業出版で、30年以上いまだ描く機会を与えられている、それだけ読者との試合に勝ち続けている方が、著作の中でも自身のブログの中でも、いまもなおこれだけの真摯さをもって想定読者に向き合ってると知り、同じ世界の片隅にいる作り手として思わず背筋が伸びます。

そして、この作品と作者からのメッセージを論ずるにあたり、私が思う最も重要な存在は、今の少女漫画の読者であり、以前まで読んでいた読者であり、ほかの作者の方々だと思っています。

おうおうおう! あんたの戦い方はそうかもしれんが、こっちはこっちでこのファイトスタイルにプライドと矜持をもってやっているんだ! そういう声はあって当然だし、その戦い方はどれも尊重されるべきです。

しかしその時には、この論者や作品の粗を探す形ではなく、どうかできれば、あなたがどう少女漫画に向き合っているか、何を求めているか、これからどうなってほしいか、そういう形であってほしいと、この漫画を読んだ一読者としても、一介の作り手としても、願っています。