マシュマロお返事

ツイッターで公開しているマシュマロに長文もらって、返事するにはこっちも長文になりそうだったんでここ使いますね。

初手から失礼千万なこと書きますけど、今の私の日常アカウントを見て「この人、乙女ゲーする人だ!」と気づくなんてすごくね? 過去に書いた感想もろもろ読むにはすっげー漁らないといけないし、そんなもん見つけるの稀じゃね? 挨拶だけ変えたコピペ爆撃かな? って疑ってます。

もし他の人にも同じことしてるならやめてくだしあ。そういうのは自分でアカウントなりブログなりつくって発信したほうがいいよ!

とはいえ、まともにリンクも何も置いてないマシュマロみつけてくれたのもあるし、そういうのじゃなくて本当に真摯に「私」の意見を聞きたい可能性にちょっとだけ賭けて、昼ご飯食べてる間だけ付き合いますね!(いま原稿期間なのであんまり長くいられないんで)

(noteユーザーさんに向けてちょこっと説明すると、2010年ごろから家庭用ハードの乙女ゲームで同人活動してました。ましたっていうか、今もタイミングが合えばオンリーに出る程度には現役です)

そんで最初からなんなんですが、いきなり「二種類いる」ってありますけど、全然自分の考えと違いますね。主人公の数だけキャラクターバリエーションがあるって思ってるんで。

まあまあ、一回置いときますよ。それで、「あなたは」ヒロインには2種類いるって考えてるんですよね。その概要も理解しました。でもそれ、主人公の数だけキャラクターバリエーションがあると思ってる私からすると、「あなたが」このキャラはこっちでこのキャラはあっちと「振り分けて」ないかなー。

まあまあまあ、また置いときますね。で、例に上がってる作品では、薄桜鬼はゲームで遊びました。ディアラヴァはアニメをちらっと見ただけで、概要くらいしか知らないし語るのは難しいし、あなたは個別具体的にその作品がどうとかというより「そのタイプに分類されたヒロインたち」をどうこうしたいと考えてるとお見受けしたので、個別に掘り下げる必要はないだろうと思うので除外しますね。そうそう、それで「言うまでもない」とか、私がディアラヴァ知らない可能性もあるのに向ける言葉じゃないよなあっておもって、「コピペ爆弾では?」って思ったんですよね。

で、はいはい、監禁からのストックホルム症候群じゃないかって話ですね。物語文化の中ではしばしば「強引にさらって、最初は反発していたものの、徐々に仲良くなっていく」というのはよく見受けられますもんね。それは暴力的ではないか、と。わかりますわかります。恋愛ものにもそういう導入は多用されてますよね。そうですねー、確かに暴力的だしそのとおりっすねって感想です。

何それ適当! って言われそうですが、ほんとにそういう感想なんですよねえ。

その手のシチュエーションでロマンスを好む気持ちの一般論をいうなら、不満があるわけじゃないけど充実しているともいえない予定調和の生活の中で人生を送るはずだったのに、ある日突然にさらわれそれまでとは違う世界に投げ込まれる。最初は戸惑い反発しながらも、新しい世界を知って驚きと刺激に溢れた生活を送る。さらった相手による強引な行動は、実はすでに主人公に魅了されたゆえに飛び越えてしまったからとか、最初は下に見ていたのに実際に触れることで主人公に魅了されていくとかで、ともかく、強引さの向こうに自分に向けられた純粋な愛情をみつけて……という感じではないかと思います。

ここでの肝は、主人公からすると日常の方が緩やかな退廃だったことです。「一方的にさらわれる」という乱暴な手段は、実はつまらない日常を抜け出すための方便としてしばしば用いられる手段であるってことですね。そして違う世界、違う人間関係に出会う刺激が、この手のシチュエーションにおける魅力なんだと理解しています。

それはそれとして一歩引いて「いやいや、魅了の言葉で片づけるなや。さらう前に合意とれや! そんなもんで芽生える愛情ってこえーわ! 洗脳だろ!」って批判はもっともだと思います。いいんじゃないですかね、はい。

現代に生きる作り手側からいえば、そういう批判は当然あるものを前提に、大なり小なり考えつくしているんじゃないですかね。上にかいたのは相当粗いプロットですけど、実際に流通している物語ではいまもっと繊細な形で描写されてることが多いと思います。

薄桜鬼の導入も、最初の一瞬は文字通り縛り上げて尋問を受けているシーンがありましたが、話を聞くうちに千鶴側にも動機とも一部一致したから、敷地内では自由にまめまめしく動いて丁稚奉公してるって展開だったと記憶しています。最近の漫画でも「魔法使いの嫁」もそういう構造ですが、主人公が望んで身売りを打診するくらいに生来の環境と自己に違和があったり、見受けをした相手がものすごく紳士な性格だったりすることで、とても口当たりまろやかになっている作品だったと思います。

また恋愛モノに限らず、映画やドラマなどでも洋を問わず頻出します。有名どころではイーストウッド監督作品の「パーフェクトワールド」でしょうか。脱獄犯の男2人が少年をさらって逃げ回る物語です。脱獄して押し入った民家で少年をさらって人質とするものの、実は少年の家庭環境は劣悪で、また脱獄犯の1人も似たような境遇で生まれ育ったために両者は心を通わせていく。けれど捜査官は脱獄犯を捕らえて少年を元の家庭に戻そうと、徐々に彼らを追い詰めていく……という展開です。

近作でも、2018年にカンヌ国際映画賞最優秀賞をとった「万引き家族」も近い構造をしています。タイトルやあらすじからは「店舗への万引き(窃盗)によって生計を立てている家族の物語」と思えた今作ですが、もちろんそれは前提として、その実態は「生家で虐待を受けていた子供を匿い、家出してきた娘を同居させ、パチンコ屋の駐車場に置き去りにされていた少年を引き取る」という、家族構成そのものが他からの借用に成り立っていた……という物語です。

両作ともに「犯罪は犯罪」として最後には決着を線引きするものの、けれどその向こうにある何か、この環境でしか成立し得ない何かを描き出そうとしている大傑作です。

そういう配慮(苦慮かもしれない)はしつつも、「わずかの間にがらりと生きる世界が変わってしまう」「これまで触れられなかった世界に触れる」、恋愛モノであれば「相手に振り回されることによる楽しい倒錯」「でも最後は『惚れた弱み』に主人公は最終的に主導権を握る」ことへのドラマチック性、従属の転換、本来いるべき世界に渦巻く悪意や弱者への抑圧をえぐりだす、そういうとこにぐっとくるんだ!!!! これを表現したいんだ!!!! これが必要なんだ!!!!! という欲求の狭間で、現在の作り手は誰しも創作してるもんだと思います。

そんなの横暴だ!って思っちゃうのかもですが、まあでも表現行為って元々横暴ですし。ここでだけは自分だけの横暴を振るうため、そうしないと現実に耐えきれないから、表現することが必要な人っているんじゃないですかね。私とか。

それと、もしそこで社会的・客観的な視点からの批評や商業的要請の方が「作り手の中で」重くなってきて書くのをやめる、方向転換するいうのも全然あり得る話です。それを促すという意味において、批評という行為は無意味なものではないと思います。

幸色のワンルームという作品を挙げられていますが、あの作品を取り巻く議論でよく見聞きしたのは、連載開始時期の直近に酷似した事件があり、それを美化した内容ではないか、「あの事件は実はこうだったのかも」と人々の間で幻想が根付いて類似犯罪の肯定に繋がらないか、被害者への二次被害に繋がらないか、というものでしょうか。

私個人からいえばそういった指摘とは「くだらない心配だ」などと一蹴できるものとは思いませんし、耳を傾けつつも警戒します。それを声に出すことで、本当にそう思っていた人の耳に届くこともあるでしょう。そして、作り手が作り手の判断で書く、もしくは書かなくなることは、どちらも最大限尊重したいと思います。

はっきりしない、曖昧な態度で、事が起きてからじゃ遅いんだぞ! と思うでしょうか。でもそうとしか言いようがない。

なんでそういう具合なのかというと、先ほど語った「好む気持ち」のように、それがどれだけ過激で万人には受け入れがたいものであっても、現実世界にこそ窮屈さを感じている誰か(ここには作り手自身も含みます)の救済になる可能性は、どんな作品にも絶対にあるのです。私もそれを信じたいから物語を手に取り、私もそれを信じて物語を拙いなりにつむごうと思っている。

でも社会は他人の集合体なので、自分ひとりじゃないからやっぱり周囲も見ます。先の例でいえば、現実の事件と作品を結び付けて結論付けてしまう人が現れる可能性などですね。その重みに筆を置くこともあるでしょう。そういった判断を「あいつは逃げた」「負けた」などと責めることも、決して認められるものではありません。さらにいうと、そうなってしまったことを指して「勝った」とするのも許しがたいとも思います。

作りたい。自分の欲求が、想像が、それで救われる誰かがいるのだと、それが誰かに伝わると信じたい。でも無用に他の誰かを傷つけたいわけじゃない。この作品はこの世界の中でどう在ればよいのか。作り手とは大なり小なりそんな裏腹さとプレッシャーを抱えるのだと思います。それこそがあらゆる全ての創作者に通じる矜持だろう、と思うからです。私はその意思がこの世界に存在すること信じたい。

現実には、作品が社会の中で持ちうる意味や影響を鑑みて、どういった形で社会に流通させるかという議論はケース別に慎重に議論されるべきです。作り手送り手の「この作品をどうにか世に出したい。読んでくれる人に届けたい」、無数の読み手の「そういうものを私は読みたくない、見たくない、あってほしくない」の摩擦の中で日々ゆれながら決まるのだと思います。

よって「あっちの作品がダメなら、似たようなこっちも規制されろ」という短絡的な考えには断じて反対です。スナック感覚で言っていいもんじゃないっす。そういう点では(初対面ですけど)あなたの言葉の端々から感じる、作り手に向けるものについては全く同意できません。ごめんね!

そうそうそれで、作品にも面白いものつまらないもの、作り手にも毎回面白いもの作る人そうでもない人、つまりは巧拙があるわけですが、もちろん批評にも巧拙があります。作品の意図を深く読み取り、参照しただろう先行作品や、歴史ものなら史実とその研究などにも触れて、発売された当時の文脈や世間の意識など、そのうえで浮かび上がる「この作品とはなんなのか」。それを読み取ってこそ批評たりえるのだと思います。

作り手だっていきなり完全にすることは無理なように、批評だっていきなり上手くやることだって無理です。ですが「そうであろう」とする意思は持ってくれよとは、ご紹介いただいたブログを読みながら思いました。

しかしまあ薄桜鬼はまだしも、リジェットってさっきいった監禁モノのような過激さを求める「そういう需要」に表立って応えてるブランドだと思うんで、そういう引っかかり方した時の地獄ぶりはお察しいたします。あと、オトメイトも普通に窓口あったしご感想としてお送りすればいいんじゃないすかね。

そうそれで一番引っかかったとこなんですけど、千鶴をふしだらな女だと言ってるのって誰なんでしょう? 千鶴はキャラクターなので名誉棄損は発生しないとしても、それでもやっぱり特定作品のキャラクターに悪い言葉を投げかけるのって、私からすると「心無い言葉を投げてるな」って思います。

ちなみにこれって「千鶴はふしだらじゃないのにそんなこというなんて!」って意味じゃないです。「誰かにふしだらだと投げること、それそのものが暴力的である」という話です。

仮に例えば、本当に性交渉の相手をとっかえひっかりするタイプの人間でも、頻繁にセックスする職の人であっても(というか仕事だしな)、「ふしだらだ」と言葉を投げることは全部暴言だし暴力っすよ。

ですので、私からすると「千鶴やその制作者がどうこうというより、そんなひどい言葉を投げるその人が悪い」って感想です。あなたも版権を買い取ってまでどうにかしようと思うくらいに千鶴を大事に思うなら、そんな暴言を吐いてる人にこそ怒りを向けることこから初めては。

ちなみにあなたと私で似てるような状況にあって、わたし2007年にPS2ゲームとして発売されたアルトネリコ2のルカ・トゥルーリーワースというもうもうもうもうもうもうもうもうもういまでもスイッチが入ると脳の血管がはち切れそうなくらいに大好きとか愛してるとかそれだけじゃ足りないくらいに入れ込んでるヒロインがいるんですけど、この子も作中の言動や展開から、発売当時からプレイヤー間でもめちゃくちゃ暴言を吐かれたんですよね。いまでも名前で検索したら嫌でも出てきます。私は今も昔も一言でも彼女にそんなこと言ってるやつは毎日小指の角を固いものにぶつけて複雑骨折する呪いが死ぬまでかかればいいって真剣に考えてるくらいに暴言吐いてるやつらの事が大嫌いだし怒ってるし憎らしいと思ってます。嘲笑の類も全部です。全部全部全部!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

おっと封印されし古の感情がちょっと漏れでちゃったいけないいけないテヘペロ★

でもまあほんとに、出会ってから10年以上、そういう感情はずっと内側にうずまいてます。さっき気軽に「怒りを向けることこから初めては。」とかいっちゃったけど、それ辛いよね。辛い言葉が吐かれているのを見るのもつらいんだけど、でもそれって反射的な現象だから辛さを抑える事ってできないし、じゃあもうそういう感情をずっと抱えているしかなくて、その抱えていること自体へのしんどさがある。いま上に書いた吐露も、事情を知らない人からすれば私がおかしなこといってるとしか思わないでしょう。でも今も当時ももっとひどい言葉が彼女にはぶつけられていたの、世の中が忘れても私は忘れてないよ。それがまた辛い。

怒りや憎しみを抱えて生きるのめっちゃつらいんですけど、だからってルカに対して「私があなたのイメージをよくしてあげますからね」とは思わないです。そういう愛情の形もわかりますけど、それやっちゃうとやっぱりルカじゃなくなるなって思うので。

私個人はこのグログロ渦巻く気持ちを抱えて生きるの辛いし、もし何か奇妙なことが起きてアルトネリコ2が制作された時期に私が制作に関与出来てルカのことをプレイヤーのみんなが愛してくれるような作品になった世界線にいけたら……ということに、いまいち魅力を感じてないかもしれないです。そんなんできないしね。

第一それで満足するのは私だけで、ルカ自身が満足するわけじゃないんですよね。彼女は彼女のいる世界で必死に足掻いて、自分が間違えたことも失敗したことも全部わかってて、自分が傷つけたものもよくわかってて、傷つけてしまった事に自分が一番えぐられて、本当に欲しかったものはささやかで「普通の」円満な環境であれば当たり前に享受できるレベルのもので、それを必死に求めて手を伸ばして、伸ばしたけどつかめなくて。そしてその果てに、彼女は他者に与えるための愛を謳った。

そんな彼女だったからこそ今でも思い出すたび涙するくらいに、彼女の事が好きで好きでたまらないんです。書きながらすでに涙ぐんでるからねここ。

私なんかの満足のためにこっちの世界に生きてる輩に対してどうこうするよりも、彼女が彼女の生きている世界の中で、平穏と慈しみに包まれた世界で生きていてほしいなって思っていたから、あの時同人誌を描き始めたし、それが今の私の活動にもつながってるなって思うんですよね。おかげさまで「当時からブログや同人誌読んでました」とおっしゃってくれてる方が今もいます。お、私なかなかハッピーじゃん。

以上が「私」の考えです。じゃあご飯食べたから終わり!