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偽善です

 決めました。
 わたしの作るものに与えていただいたサポートの半分は、困っている子どもたちへの寄付をします。
 残りの半分は活動を継続するための資金として使わせていただきます。

 それはずっとやりたいと思っていた事。
 わたし自身弟にしょうがいがあって、小さな頃から弟の為に何かをするメンバーとして存在していたから。
 最近になってやっと存在が認められてきたヤングケアラーに近いものがあったと思う。

 わたし、ではなく、弟のお姉ちゃん。彼の為に何かするのは当たり前で学校でもサポートする役割。
 自分なんか存在価値がないって思い込みは多分そこから植えついたものだと思う。
 誰かのためにならなきゃいけない。
 役に立たないなら居場所がなくなる。
 その恐怖は大人になっても抜けないものだ。

 自由になれたキッカケは弟が高校に入った時、そこの先生が親や祖母に言ってくれた言葉にある。

お姉ちゃんは彼の為に存在しているのではなく、一人の人間として好きなことをする自由があります。だから彼女にこれからを背負わせてはダメですよ。

 涙が出そうだった。
 そうやって言ってくれる人が誰もいなかったから。
 もちろん家族には愛されていたと思うし、大切に育ててもらったとは思う。決して虐待や束縛をされていたわけじゃない。
 ただ、ひとりではうまくやれない弟をそばで助けてあげてねって言う、親にしては当然の願いをわたしが難しく受け止めてしまっただけの話だ。

 だけど弟が生まれた時から「お姉ちゃんだから弟を助けてあげてね」と言われ続けてきたらそう勘違いするのは仕方ないと思う。誰だってそういう思い込みってあるだろう。

 まあそれで家族は初めてわたしにも自由があるってことに気がついて、そこからたいぶ変わったのだけど、あの時先生が助け舟を出してくれなかったら今も弟のケアをし続けていたのかもしれない。

 そんなわけからヤングケアラーについては他人事とは思えない。
 また、しょうがいを持っていたり、何かしらの問題を抱えた家族の、とくに子供の大変さは少しだけ理解出来るつもりだ。
 そんな子供たちをサポートする取り組みは民間や個人でいろいろ立ち上がってきているのを見ていて、わたしにも何かできないかな、と思うようになった。

 きれいごとなんだろう。
 偽善だね、と言われたこともある。
 その通りだ。
 何の力もないし、何の責任も持てないのにほんのわずか、わかったフリをして助けてあげるなんて厚かましいことこの上ない。
 自分でもナニサマだよって思う。

 だけど、もしかしたらほんの少し。
 誰かの手が差し伸べられたら、助かる気持ちがあるのかもしれない。
 何かのお役に立てるのかもしれない。
 そんな淡い期待も持ってしまう。

 わたしにも生活がある。
 自分の子供にもまだまだお金がかかるしサポートも必要だ。だから無理はできない。
 自分の生活を犠牲にするつもりもない。
 一番大切なのは自分の家族だし子供なのだ。

 だったらできることは、と考えた先にあったのが最初にある「わたしの作ったものに与えられた稼ぎの半分は寄附をしよう」だ。
 全部やれよ、と思うだろう。
 だけど何かを作るためには元手もいるし、先細りの活動に未来はないから、やりたい活動をできるために半分は使わせてもらいたい。
 寄付の先はまだ未定だ。
 ただ子供たちのためになるところへ。無料食堂かもしれないし、ヤングケアラーのサポートかもしれない。物資の寄付かもしれないし、また違うものかもしれない。

 わたしがお金に換えられるものなんてたかが知れているけど、チリも積もれば作戦で少しずつでも活動していけたらいいなと思う。

 はっきりいって偽善です。
 いい気分になっているのかもしれない。
 わたし、こんなことをしているからっていい人ぶりたいのかもしれない。
 でも、その先に一人でも「あの時があったから」と繋がるものがあるならやる意味があると思う。

 もう「わたしなんて…」とモダモダしている場合じゃない。
 ようやく腹をくくれたのでここに書かせていただきました。
 読んでくれてありがとうございます。

 



よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートの半分は子供たちの為のボランティアなどに贈らせていただきます。わたしの活動が誰かのためになりますように。