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世界観? カントはそんなこと言ってない――IZTY(イッチ)の曲が教えてくれている『K-POP原論』を読む

以下は,野間秀樹著『K-POP原論』ハザ(Haza)2021年12月1日刊行,からの抜粋です.約5200字ほどです.
原文は縦書きです.ごくわずかに,原文と異なることがあり得ます.

キーワード:
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2-1 それは「世界観」などではない、
    めくるめく〈世界像〉なのだ

世界観? カントはそんなこと言ってない――IZTY(イッチ)の曲が教えてくれている
 K-POPを語る言説に「世界観」という単語が頻出する。ゲーム論やファンタジー論やSF論などで広く用いられ、K-POP論でも多用されている。今日ではアーティストたちはもちろん、韓国の小学生でも用いる単語になっている。
 ちなみに、K-POPの歌詞にも登場する。ITZYという五人の女性のグループの〈Voltage〉というMVの傑作がある。何と韓国語がない、日本語だけの歌詞しかない曲である。初めて耳にしたとき、「世界観のせいだもん」と聞こえる一節があって、凄い歌詞だなと驚いた。自分ではなく、自分の「世界観」のせい? 自分ではない「世界観」が自分にある? 後で歌詞を読むと、違った。〈世界観 Upside down〉とあって、さらに世界観がひっくり返るくらい驚いた。
 この〈Voltage〉は、英語こそ混ざっているものの、基本的に日本語であって、韓国語ではないので、いかにもK-POPという印象が希薄である。かといってJ-POPとは随分と距離がある。ただし、〈素晴らしいが、K-POP的じゃない〉と言うより、〈よくぞここまで日本語でK-POPを造った〉と言える曲に、仕上がっている。この言わんとするところを含め、ともかく私たちの意識のVoltageががんがん上がる作品なので、まず視聴してから、進もう:
       (原著ではQRコードがついています.●の後ろに★があるものは,本書でQRコードを示した150本のうち,ベスト40本の記号です)

●★ ITZY「Voltage」Music Video
https://www.youtube.com/watch?v=krzf1hkFAZA

● ITZY「Voltage」Special Dance Clip
https://www.youtube.com/watch?v=5uQuUCW-9aI

● ITZY「Voltage」Special Performance Movie (YouTube ver.)
https://www.youtube.com/watch?v=1_sylBku10M

 二〇二二年。〈ITZY〉からはハングルではいろいろな書き方が可能なうち、〈있지〉と書かれていて、これだと〈あるよね〉とか〈いるさ〉ほどの意味を実現する。
 ITZYのMVはどれも五人のアーティストたちそれぞれの存在感が際立っているが、これはその中でも尖っている。歌詞は日本語と英語、〈24 hours〉や〈Once〉などの美しい曲でも知られた、シンガーソングライター、Mayu Wakisaka(1980-)氏の作詞である。作曲は複数の作曲家が係わっている。なお、今日のK-POPはこのように、その深いところで、マルチ・エスニックな存在であることにも、再度着目されたい。K-POPの多声的な性格とも通底する。
 主題は冒頭の〈甘くみないで〉ということばに凝縮されている。いわゆる〈ガールクラッシュ〉路線だ。物語を作っていく手法ではなく、詩の断片をぎゅっと詰め込んだような、象徴詩的作法で、予定調和に陥らず、変化に満ちている。間投詞やオノマトペが多用されているのも、K-POPの重要な特徴である。
 曲のビートも刺激的、旋律の高低の変化も激しい。何よりも五人の〈こゑ〉――なぜ「声」と区別して、 〈こゑ〉と書くかは、 後述する――が圧倒的で、 イェジ(YEJI)氏やユナ(YUNA)氏の〈アアゥ〉などいう叫び声がF5、つまり〈上のファ=hi F〉(通常、音の絶対的なピッチ=高さを、こう名づけている)あたりのハイ・ノート(高音)から私たちの心臓へぐさりと落ちてきて、直撃貫通するごとくである。ダンスも激しい。動線は変化に富み、映像からは身体性をこれでもかとばかりに押し出そうと造っている。そしてこれらを定着させるカメラワークに、注目したい。ハンドヘルド=手持ちやクレーンを多用し、揺れで私たちの視覚が壊れる限界までを振る。それでいて、アーティストたちの存在感は最大化される。2:38ほど、ローアングルから、 五人の行進を、 カメラをゆさゆさと揺らしながら追うあたりは、 驚異的だ。0:45、イェジ氏が車の割れたフロントガラスに貼り付いて、見せる手と指の造形、そしてイェジ氏の視線、眼差しだけ立ち上る存在感。イェジ氏と対峙している広角レンズの斜めの構図も不安定感という刺激をかき立てる。我等がリュジン(RYUJIN)氏のダンスは速い。そしてラップの存在感は、太くて、ずっしりと響く。ラップはそれでいて、温かく、柔らかいのが、驚きだ。こんなふうにラップをやる人は、K-POPにはいないよ。1:51、気づきにくいが、リア(LIA)氏の神髄は中低音にあり。〈こゑ〉は存在感に充ちる。時計を模したのだろう、こんなコレオグラフィー=振り付けも楽しい。そこに捻りながら食らいつくカメラのうまさには、もうあっけにとられて、開いた口がふさがらない。
 衣装、ヘアメイクも五人それぞれを際立てるよう、違いが工夫されている。舞台背景や色彩の変容も速度感を失わない。
 ただ、置物化してしまっているバイクと、バイクのファッションは惜しい。こうした装置で格好よさを、 という発想は、どう考えても、二〇世紀のものだ。クリエイターたちがそんなファッションを纏わせている相手は、誰だ? K-POPの世界では、子供の時から知られていた、恐れ多くも、チェリョン(CHAERYEONG)氏、イ・チェリョン氏である。ダンスの鬼才である。また異なった魅力を放つユナ氏に、纏わせるのも同様。これだけのアーティスト二人を、ただバイクに寄りかからせておくなど、あまりに惜しい。この貴い時間を、 例えば踊ってみせてくれる映像で造形すれば、バイクの何倍もの魅力が二人なら造り出せるではないか。
 〈Voltage〉にはMVとは別に、〈Special Dance Clip〉〈Special Performance Movie〉が公開されている。ダンスだけでもこれだけの高みに仕上がっている。それらを互いに比べると、このMVがいかに全く異なった高みの造形を、創り出しているかが、見て取れよう。

〈日本語K-POP〉の電極
 ところで、一般に日本語で歌われたK-POP MVは、韓国語のそれに比して、視聴回数がはるかに少なくなる。ITZYのこれまでの作品も二億だの三億だのを超えるものもあるなかで、 この〈Voltage〉は、 公開が未だ三カ月前とはいえ、 充分多いのだが、一千五百万回ほどに留まっている。もっと世界に知ってほしいなと思うと、ここでもちょっと惜しい。この〈Voltage〉がもしや韓国語でも造られていたら、――そしてバイクのパートが全く異なった美学で造形されていたら、さらに嬉しいが――、おそらく世界のはるかに多くの人々が歓喜したであろう。日本語のK-POPは他言語圏の人々からは、どうしてもワン・クッション置かれた距離にあるからである。
 当然だが、K-POP周りには他のどの言語よりも、韓国語に親しんでいる人が、地球上には多いわけだ。そもそも、人々にとって、韓国語で歌われるのが、K-POPだった。
 K-POPの韓国語の歌詞は概ね、たちどころにいろいろな言語で翻訳が試みられ、共有されている。なお、これは言語の性質の違いが音やことばに現れ、それを当該分野で他の言語の人々がそれぞれどちらに慣れているか、というだけのことであって、それをすぐにどちらの言語が「いい」とか「悪い」などと「優劣」を言い出すのは、一〇〇パーセント誤りであると同時に、二〇〇パーセント罪深い。
 それにしてもこの〈Voltage〉はその名の通り、私たちの感性を高みへ、高みへと、ぎりぎり刺激してくれる。いわば〈日本語K-POP〉の強力な電極の一つだ。こんなふうにいろいろな言語で、〈○○語K-POP〉なんてのがあると楽しそうだけれど、まあ、そんなことをやり始めると、アーティストたちへの負担が大き過ぎるから、やらないで。

世界観とは〈世界の見方〉だ
 さてこの 「世界観」 はドイツ語 Weltanschauungの日本語訳。英語ではworldviewほど。哲学者、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)が『判断力批判』(一七九〇年)で用いて、後に哲学の世界に浸透することとなった。と言っても、同書にはさりげなく、ただ一回しか使われていないのだが。
 Weltは「世界」。anschauenは「見る」の、雅語的なことば。その名詞形Anschauungには「観想」「見解」「……観」などの訳語も用いられている。an-は〈接近〉の意の接頭辞。schauenは広く用いられる「見る」の意の動詞で、面白いことに、英語のshow(見せる)と同根。-ungは英語の-ingで、動名詞を造る接尾辞。
 Weltanschauungは端的に言って、〈世界の見方〉である。基本的にはある個人が世界を見る見方であって、素朴に考えて解るように、その個人の世界観というものを、強いて数えるなら、一つしかないものだ。主体を個人ではなく、集団に取り替えてもやはり、世界を見る見方という点では、変わりがないので、いま、そのときの、世界観は一つとしか言いようがない。一九六〇年代頃は「世界観を変革する」などのようにも用いられた。これは事実上、〈思想を変革する〉という意である。
 カントの後は、やはりドイツ語圏の哲学者、ヴィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833-1911)が『世界観学』で古今の世界観≑思想を体系的に分類しようと試みている。世界の見方の分類、事実上、思想の分類のようなものだ。私たちのK-POPの考察にとりわけ参照するほどのものは、さしあたり、同書では見当たらない。

世界観? やっぱりカントはそんなこと言ってない
 こうした「世界観」が、 今日では「この作品の世界観が」とか、 「新しい世界観を作った」とか「今回の世界観は」などと言われるようになった。カント流に考えるなら、作品を作った人の世界観は普通に考えれば、一つなわけで、そのごく一部がある作品に投影されることはあっても、 作品そのものが総体としての世界観など持っているわけではないし、そもそも作品が別々の世界観を持つ主体になっているわけでもない。二〇二一年、日本語圏では『デカルトはそんなこと言ってない』(ドゥニ・カンブシュネル著、津崎良典訳、晶文社)という書物が刊行され、その題名に思わずにやりとして、入手した。これに倣うなら:

   世界観? カントはそんなこと言ってない

 ということになる。もちろんディルタイもそんなこと言ってない。従って〈Voltage〉の歌詞のように、お前の世界観はひっくり返るんだ、というような志向性での「世界観」の用法は、実に正しい。まさにupside downする=ひっくり返るようなものが、世界観であるから。だが世に多く言われるような「この作品の世界観」などの用法はいただけない。まあ、本書がいくら〈いただけない〉などと呟いても、それこそ世界を相手に、無駄な抵抗ではあって、一々否定する必要も、また、効果もないけれども。
 しかしながら、私たちのK-POP MVの作品論を考えるにあたっては、それこそこうした古い「世界観」とはここで訣別しておこう。

〈世界観〉のコペルニクス的転回は、私たちの美学のコペルニクス的転回でもある

 以下略

note 『K-POP原論』はじめに:

note 『K-POP原論』目次 詳細版:

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