ソ連ナイトって何なのですか?

その取って付けたようなイベント名。昨年からの訴えが通じて名称だけは変わったけれど、どうやら方向性はまったく変わっていないようです…。
※以下に記すのはあくまで私個人の意見です。

お笑いソ連邦、ウケればそれでいいのか?
はっきりいって、今のソ連ナイト(旧称・ソ連カルカル)は当初の志とは全く別のものだと思います。旧ソ連に生きた人々や文化を上から目線で愚弄し、それをフォローすることもなく単なるネタとして消化するだけでおしまい。文化的、歴史的なバックグラウンドの説明はほとんどせず、ウケる話題として瞬間的にバズることを至上命題にしているような気がします。せっかくシリーズ化するなら、面白ネタ以外にもソ連のヒューマニズムの部分、あるいはアネクドートや歴代政権の闇、最高指導者にもスポットを当てたらどうですか?と進言したのですが、それがうるさく思われたのか、ある日カルカルの横山店長から「俺とCさん(情報サイト・おそロシ庵 @Goncharov_jp の主宰者)はあなたとはもう一緒にできないから」という一方的な留守電での回答が。企画はこっちでもらうので身をひいてくれと促され、気づけばなし崩し的に彼らが牛耳る「おそロシア」イベントに替わっていたのでした。

2014年に【ソ連の大衆文化】がテーマという型破りなイベントを発案した当事者として(およびかつての登壇者として)、沢山の方に興味をもってもらえるのはうれしいことです。けれども、このコミュニティが皆のものではなく、箱やおそロシ庵のお金儲けと売名の道具と化していくのを見て、こんなはずじゃなかったという気持ちを抑えきれなくなりました。せめてきちんとした話し合い後に私をメンバーから外し別のコンセプトで仕切り直せばいい話では? 
当時はこのイベントは一回きりの開催予定だったので、契約書も何も交わされていません。私はといえば「カルカルの他のイベントがキャンセルになったので、何か企画を考えて」と知人に言われて協力したまでです。最初店長は低姿勢で打ち合わせやメールで毎回きちんとコンセンサスを取ってくれる感じだったのが、途中からおそロシ庵の中の人が暴走を始めました。「自分に意見を言うやつは潰してもOK」「あいつを出すなら俺は出ない」と独裁者として君臨するようになったのです。そこで店長はこのイベントを死守したいため、彼らのイエスマンに成り下がりました。私は意見を言えなくなりイベントを追い出されることに。かつては世話になり、こちらからもそれなりに世話をした人物にここまで裏切られるとは想定外でした。さらにはスターリンやプーチンの「処理済みハンコ」なんて、全然笑えない悪趣味グッズを販売することも。仮にもカルチャーと名の付くイベントで、ソ連時代の「粛清」を茶化したグッズを大々的に売ることがどんな意味を持つのか想像できないのでしょうか?また、現行ロシアで言論弾圧に合っている文化人のことが耳に入っているなら、この「処理済み」という文言は軽々しくは使えないと思うのです。ちなみに盟友だと思っていた尼崎のイスクラ @DDRplanet 氏がこちらが登壇できなくなった途端、私の悪口を拡散し彼らを手放しで応援し始めたことも追い打ちをかけました。彼女はこの忸怩たる思いを察していたはずですが、結局人気者に日和る人なんだなと。

このイベントは毎回ほぼソールドアウトしているので、100人分のチケット代+飲食代×過去の開催回数分だけでも結構な額(予想で400-500万円?)が動いていると予想されます。もちろん、私も最初の3回までは出演料を頂き物販も優遇してもらっていました。ただ、ここ最近は会場へ赴いてカルカル店長やおそロシ庵の二人へ会釈しても(企画を奪還しに来た邪魔者に見えるのか)完全無視されます。これが一番つらくて寂しかったです。とはいえ、用済みの弱者は淘汰されるのが業界の掟。このログはしょせん負け犬の遠吠えにすぎません。ただ、もし私が別の場所でソ連カルチャーイベントをやっていても、ソ連ナイトのパクリだとは言わないでほしいのです。

第一回イベント開催までの経緯について
今回で7回目を迎えるカルチャーカルチャーでのイベント、通称ソ連カルカル。その第1回目は2年前の2014年6月14日に行われました。
「ソ連カルチャーカルチャー~バック・トゥ・ザ・USSR!!☆」◆
当初はビートルズマニアが間違って来場しそうな、ベタな副題がついておりました。1991年のソビエト連邦崩壊からずいぶんと時が流れているというのに、201×年のきょう日、なぜ突然「ソ連へ帰ろう!!」なのでしょうか? そこで私個人のソ連観を絡めてお話しようかと。

ソ連といえばミリタリーと政治。昭和生まれ、冷戦期育ちの私からすると、それは揺るがない常識のようなものでした。筋金入りのミリオタ諸兄と歴史・政治マニア(そして共産党員)の皆さんだけがこの国を熱く語ることを許され、浅薄な知識しか持たない素人や女子供(※語弊ある表現お許し下さい)は手を出してはいけない不可侵領域、それがソ連のイメージ。ベレンコ中尉亡命事件(1976年)、アフガン侵攻を受けての西側諸国のモスクワ五輪ボイコット(1980年)、大韓航空機撃墜事件(1983年)……70年代から80年代にかけて立て続けに起きた不穏な事件は、まだ子供だった私の心に仮想敵国としてのソビエトロシア像を植え付けました。ソ連はこわい、ソ連はおそろしい――。『ザ・デイ・アフター』など米ソ全面核戦争を描いた作品が公開され、ディストピアが現実にならないかとひそかに怯えていました。当時、Y新聞社に勤めていた父がリベラルとは程遠いタカ派人間だったのも影響しています。人民服を着たYMOの写真を部屋に飾っていたら「赤と間違われるから捨てろ!」とトンチンカンな理由で怒られたくらいですから。21世紀になるまでロシアや旧共産圏への悪いイメージが抜けず、狭い見識にとらわれてずっと生きてきた私が、中年にさしかかった30代のある日、彼の地を訪れてにわかにその文化にめざめることになるのです。

初めて見た共産圏の光景
一番最初に訪れた旧共産圏の都市は、ドイツのベルリン。ただ単純にヴィム・ヴェンダースが巻頭に言葉を寄せている『Pen』の特集にひかれたから。そこには「ベルリンの旧東ドイツエリアがいま熱い!」と言った見出しが。今まで西ヨーロッパしか旅行経験がなかったけれど、そろそろ東側の世界へ行ってみる時期かもしれないーー。そう思い立ち、2001年に訪れたドイツ・ベルリンの旧東地区は殺風景で、いたるところにかつて支配下にあったソ連の残骸が残っていました。ミッテ区の中心、アレキサンダー広場は観光客も少なく閑散としていて、ビルの窓ガラスはあちこち割れたまま。テレビ塔のみやげ物屋では、英語の話せないロシア系店員がショーケースに入った山積みのマトリョーシカやウシャンカを退屈そうに売っていて、競争原理が行き渡ってない感じが漂っていました。延々続くシュールな集合住宅地区(プラッテンバウ)、建物の側面に描かれた巨大モザイク画、廃墟なのかアートなのかわからない落書きだらけの街並み――東西冷戦終結から10年あまり経ち、初めて目にする東側の世界は暗い雰囲気を湛えていましたが、その光景に不思議な郷愁を感じる自分がいました。カクカクしたプラッテンバウが懐かしいのは、物心ついたころ札幌の真駒内団地に住んでいたせいなのかもしれませんが。

程なくして足を運んだハンガリーやチェコ、ポーランドといった国々でも、観光客向けのヨーロッパ的な建物より社会主義時代の面影を残す灰色がかったアパート群、文化科学宮殿などの共産建築に強くひかれました。素朴で時にツッケンドンな人々の対応にも一昔前の名残を感じたのをおぼえています。奇しくもその頃は『グッバイ、レーニン!』など、社会主義時代のノスタルジーをテーマにした映画がお洒落な若者の間で話題になっていました。親や世間から「赤狩り」を受けるおそれがほぼ無くなり、旧共産圏への恐怖心が薄らいでいくにしたがって、やはり「本丸」を訪れなくてはという気持ちになっていったのです。その場所とは言わずと知れたモスクワ、赤の広場。一生訪れることはないと思っていたソビエトロシアの権力の象徴。その決心をしてから実行まで5年かかるほど根深い恐怖が私の中にありました。

ちなみに、初めてロシアで降り立ったのはハバロフスクやウラジオストクなどの極東の街でした(たしか2007年頃)。昔の交通インフラが現役で使われていて、郊外の団地が広がる風景はなんらソ連時代と変わっていない様子。市場に行くと可愛らしい個包装のお菓子や素朴な民芸品が色々あって、目にするものすべてが懐かしいのに新鮮でした。ただ、シベリア鉄道が最新型車両だったり、商店に並んでいるのも資本主義以降のロシア製品中心で、この旅でソ連デザインに触れるチャンスは実はそんなにはなかった気がします。ソ連時代のモノに一気にハマっていくのは、やはりモスクワを訪れてから。ヴェルニサージュという、お土産などを販売するマーケットで週末に行われる蚤の市(古物市)に行った時のこと。陶器、バッジ、人形、古書、切手、レコード、カメラetc……ソ連時代の様々な日用品や骨董が並ぶブースを見渡して、デザインの面白さと品数のボリュームに圧倒されながら、私は長年自分がおかしていた過ちに気づきました。ソ連は「こわい」だけじゃない。鉄のカーテンの向こう側にはこんなにも愛おしい、人間くさい魅惑の世界が広がっていたのだ。そして、今までなぜそれを知ろうとしなかったのかと。

ヴィンテージのなかでとくに目を引かれたのはザラ紙のような紙に印刷された絵本やポストカード、昔懐かしいおもちゃなど、子供向けのもの。どこか昭和レトロを彷彿させるぬくもりがありました。思えば小学生のころ、モスクワ五輪を控えた1979年にTVアニメ『こぐまのミーシャ』が放映されていて、私は毎週楽しみに見ていたのでした。<モスクワオリンピックまであと○日>と盛り上げていたこの番組は、日本選手団のボイコットによるしらけムードのなかひっそり最終回を迎えたように記憶しています。「こわい」ソ連には、いったいどんなお友達が暮らしているのだろう――当時、分厚い鉄のカーテンに阻まれ会えなかった同世代の仲間に、古い絵本やおもちゃを通じて今ようやく対面できたような気がしたのです。蚤の市でしばらく一心不乱に絵本の山を漁っていると、異様な同胞の姿に気づいた一人の女性が話しかけてきました。彼女はモスクワ在住の日本人でこの場所の常連でした。私が右も左もわからない初心者だと知ると、親切に友人だというロシア人ディーラーを私に紹介してくれました。彼との運命的な出会いに導かれ、私はソ連時代のモノや文化にハマっていくことになるのですーー。

前置きがだいぶ長くなりました。改めてこのイベントを企画した意図について。ソ連の専売特許であるミリタリーと政治、googleで検索しても戦車や戦闘機、北方領土、シベリア抑留など、とかくヘビーなものだけが上位にあがってくるような現状を変えてみたかったためです。ほかならぬ私自身がソ連イコール「悪の帝国」(by ロナルド・レーガン)という、この広く流布した暗いイメージを長い間抱えていました。至極当たり前のことですが、巨大な一党独裁国家が行った悪事と、その国に生きた人々、またソ連を構成する十五共和国それぞれに根差した豊かな文化は切り分けて考えねばならず、同一視すべきではないのです。現地に行き直接人々からソ連時代のエピソードを聞いたり、ミュージアムや蚤の市でソ連製品に触れたりするまで、実はそこに考えが及びませんでした。そんな浅学な私の、この国に対する罪ほろぼしの意味合いもあります。

ソ連の遺産から見えてくるもの
冷戦が終わり一旦リセットされた世界から、改めてソ連のデザインやカルチャーを振り返ると何が見えてくるのか? 現代を生きる我々のヒントになるようなものはないだろうか? そういう興味深い考察を皆さんしてみたいと思いました。そして賛否両論あるとは思いますが、「ソ連へ帰る(バック・トゥ・ザ・USSR)」時空旅行は、この国の人々が味わった様々な苦労を脳内で追体験するという、若干の「痛み」が伴ったほうがより深みが増すという結論にいたりました。例えば私が登壇したとき第1回目のプレゼンでは、ソ連時代に制作されたCM動画を多数流したのですが、ソ連では流通システムに欠陥があり品揃えも貧弱なため、CMで良いと思った商品を購入することができないという矛盾を抱えていました。また第2回目では、スターリン政権下で流通した肋骨(レントゲン製)レコードについても取り上げましたが、何を聴こうが自由な西側資本主義世界からすると考えられない苦心の発明です。以前箱側に提案して却下された「アネクドート」も党の独裁体制に抵抗する高度な風刺文化で、ソ連文化の真髄となる部分ではないでしょうか。(※追記、今夏「スターリンの葬送狂騒曲」が公開される件もスルーすべきではないでしょう)

ひるがえって、記憶に新しい前回行われた「ソ連カルカル6」。80年代後半に登場した超能力者などを取り上げていましたが、ああいう霊感TVショーに人々が熱狂するようになった理由(ex.ソ連末期におきたインフレや、チェルノブイリ原発事故などによる政情不安)が欠落しているため、単に騙されやすいソ連人の与太話に終始していました。「共産テクノ」もペレストロイカによる急激な自由化で解き放たれた若者たちが、西側への強烈な憧れとコンプレックスを投影した音楽ゆえにササるのではないかと。そういう視点抜きだと、単なる西側音楽の亜流として片づけられてしまう気が。ソ連カルチャーの魅力とはたえず厳しい統制にさらされ、光と影が表裏一体なところだと個人的には考えています。だからこそ、上辺だけを取り上げて誤解を招くことのないよう、取り扱いにも注意しなくてはならないと思うのです。
ソ連関連の展示やイベントをやってみてはじめて知ったのは、ソ連というだけで白い目で見られていた時代にも、草の根レベルで文化交流を試みた人がいたということ。そういう方々からこのようなイベントをやってくれてうれしいという言葉を多数いただきました。当時の話を聞くにつけ、いかに鉄のカーテンが分厚かったのか、いかに偏見が強かったのかがわかり身の引き締まる思いがします。まだ無知でいたらない点が多々ありますが、ソ連文化の知られざる側面を多角的視点で紹介できるよう今後も努めていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。   
(ソビエトカルチャーBOT)

2022年3月追記:ロシアの大統領の一存でウクライナへの全面的な侵攻が行われれ、ソ連崩壊後に積み上げられた世界平和の秩序が脆くも崩れ去ろうとしています。ソ連文化を紹介する意味もこの一週間でガラリと変わってしまいました。プーチ印を作った方々は反戦デモで捕えられたロシア市民、あるいは軍事衝突で犠牲になった方々にも「処理済」印を笑いながら押せるのでしょうか?

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