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氷眼病 1 発症


作品のあらすじ

ある日の朝、青葉は自分の目が氷になっていることに気が付き、同居人の千早と共に病院へ行った。
診断は「氷眼病」。できるだけ寒い場所で暮らし、泣かず、日光を避ければ、1年は視力がもつと医者は言う。
「冷たい」奇病に侵された青葉と、人と性愛のある関係を築けず「冷たい」人間と言われてきたアセクシャルの千早。二人の紡ぐ、透明な人間愛の形とは?
この話では、あえて登場人物二人、千早と青葉の性別を曖昧にしています。

発症

自分の両目が氷になっていると青葉が最初に気付いたのは、早朝に顔を洗おうと洗面台の前に立った時だった。

それまでは少しも妙なことはなかった。見え方に違いはなく、目覚めたて特有の瞼の重みはあったが、それだけだった。冷たいとも、重たいとも感じなかった。

白目だった部分は透明で、光を弾くたびに美しかった。黒目だったところは、さらに純度の高い氷なのか、何かの色彩を含んでいるのか、薄水色を湛えていた。

あまりに美しいので実は宝石か何かではないかとも疑い、指先でそっと触れてみたが、それは確かに冷たく、指先の体温で解けた表面の水滴が頬を伝った。

青葉は鏡の前でしばらくの間、目を見開いたり、下瞼を押し下げたりしていた。やがてリビングに降りていくと、朝食を作っている同居人の千早に向かって言った。

「目が氷になってしまったようだ」

千早はボウルいっぱいのサラダを、木べらで掻きまわしていた。ときどきドレッシングを足して、味を調えていた。

「見せてごらん」

千早は手を止めずに言った。千早の朝は忙しい。仕事場までバイクで3時間かかるものだから、6時50分には家を出なくてはならない。朝の千早の自由になる時間は、大事なLINEチェックの5分と、朝食を食べる間の10分だけ。

だから、出来るなら邪魔をしたくないと青葉は思っている。しかし千早は、一度行ったことはやり切るタイプの人間だ。

近寄ってこない青葉に業を煮やし、サラダボウルを抱えたまま、青葉の前までやってきた。

背伸びをして青葉を見上げ、目を覗き込む。青葉には千早の目しか見えない。緑色。

「病院に行くべきだろう」

千早はそう言うと、サラダボウルを青葉に渡し、自分の尻ポケットからスマホを取り出した。

青葉に背を向け、どこかに電話を始める。

いつもお世話になっております。申し訳ありませんが、本日、家の者の病院に急遽付き合うことになりまして。ええ、はい、無理でもやってください。いつまでも、私がいないくらいで回らないチームでは困りますから。

電話を切って振り向いた千早に、青葉はサラダボウルを返した。

「付き添いなんて……。僕は一人で大丈夫だよ」

「私が心配なんだ。なんでもないってわかれば、安心できる。私を幸せにしてくれ」

青葉は苦笑する。私を幸せにしてくれ。千早の不思議な口癖だった。

最初はかかりつけ医のところへ行ったが、すぐに紹介状を書くと言われ、二人は大病院に回された。

「氷眼病だね」

枯れ木のように痩せた医者は、カルテに向かって囁くように言った。

ひょうがんびょう。千早は舌先で確かめるように、その単語を口にした。

「どうすれば治りますか」

青葉が尋ねると、医者はすーっと吐息を漏らし、首を横に振った。

「できるだけ、部屋を寒くして、目が溶けてしまわないようにしてください。直射日光も避けて。サングラスを使うのもいいでしょう。泣くことは避けてください。できるだけ。それで1年は視力が保ちます」

できるだけ、と二度も重ねたうえ、1年先のことを、医者は言わなかった。だから、青葉も千早も聞かなかった。

薬の処方も、解決策もなく、二人は病院を後にした。

帰り道に眼鏡屋に立ち寄り、お揃いのサングラスを笑いながら選んだ。

家に帰ると、千早は早速、全ての部屋のクーラーをつけた。設定温度を18℃まで一気に下げて、風速は最大にした。

青葉はソファに身を沈めて、買ったばかりのサングラスを外して眺めた。濃い緑の細長いフレームが、青葉の小顔によく似合っていると、千早は褒めてくれた。

「千早」

青葉が呼ぶと、ベッドルームの方から返事があった。青葉は立ち上がり、その声を追いかけた。

ベッドルームで、千早はシーツを夏用に変えていた。変えるにはまだ少し早いかな、と二日前に話したばかりだった。

「千早」

青葉がもう一度声を掛けたところで、千早の動きが止まった。

「いつでも出ていくし、捨てて行ってくれても構わないからね」

言わなければいけないことを口に出してはじめて、青葉は胸に痛みを覚えた。同時に、ピシッと奇妙な音がして、目に痛みが走った。

はらはらと零れるのが涙なのか、目そのものが溶けた水滴なのかわからなかったが、ただとにかく、青葉はぼんやりと、「できるだけ」と言った医者のささやきの意味を理解しつつあった。

部屋はすでに凍えていた。ただ温度を下げただけのはずなのに、部屋全体が薄青くなったように、青葉には感じられた。今までにないほど体調は良かったが、目から溢れるものは止まらなかった。

千早の指先が、青葉の頬に触れた。千早の手も部屋と同じく凍えてはいたが、温もりらしきものを青葉に伝えた。

千早は不器用な手つきで青葉の水滴を拭い続けた。青葉の目前で、千早の右手中指の黒い指輪がチラチラ揺れる。

ひたむきな熱にあやされるうち、青葉はなんとか泣くのをやめた。

千早は青葉の目がまだしっかり残っていることを確認しながら、

「昼食は何が食べたい?」

と言った。

青葉は嗚咽を飲み込みながら、どうにかして、冷たいそうめん、とだけ答えた。



日々


千早の右手の中指には指輪が嵌っている。細くて黒い指輪は、千早の白い肌に映える。

千早の細い指には、見た目からは想像できないほどの力があることを、青葉は知っている。

青葉の手では開けられなかったはちみつの瓶の蓋を、千早は軽々と開ける。

青葉が持つと一歩も歩けなくなるほど重たい袋も、千早は平然と持ち上げる。

袋の中から白い氷の塊を取り出し、まな板の上に置くと、千早はハンマーでそれを叩き壊した。何度も叩いて、一口サイズにしてしまう。ガラス皿に盛り、仕上げに黄金色のはちみつをたっぷりかける。

テーブルについている青葉の前に皿を置くと、千早は斜め向かいの席に腰を下ろした。

「どうぞ」

千早に促され、青葉は手づかみで氷を食べ始める。はちみつが指についてべたべたしても気にしない。ただ、儀式のような真剣さで氷をむさぼる。

氷眼病にははちみつが良いというネットの記事を見つけたのは青葉だった。はちみつに含まれる豊富な栄養素が、氷になった目を硬く保ち、割れにくくするのだと、記事には書いてあった。

千早も青葉に勧められ、同じ記事を読んだ。記事を読み終わった千早は、しばらく沈黙し、静かな目で青葉を見つめ、ただ穏やかに「じゃあ、いくつか種類を買って、試してみよう」と言った。

氷を食べるのは、枯れ木似の医者に勧められた。診断を下されてから、1か月に1度は、あの医者の元へ二人で行く。

外側からだけでなく、内側からも冷やすのが良いのだと医者は言った。彼は二人のほうを向かず、またカルテに向かって話しかけていた。

二人の日常は必要に応じて変化していったが、滑らかに進んだのは、千早がいつも冷静で、青葉を第一に考えてくれたからだと、他でもない青葉が最も理解していた。

千早は、大学を辞めて家に閉じこもるしかなかった青葉のために、自分も仕事を全てテレワークに切り替えた。

服が肌に触れる感触があまり好きではない千早は、前までは、下着もつけないで、ワンピースのようなだぼついた服を1枚被っているだけだった。けれど今は、クーラーの寒気を避けるために、何枚も重ね着し、帽子まで被っている。

「いいパートナーがいてよかったね」

壱度だけ、どうしても千早が会社に行かなければならなくて、青葉が一人で病院に行ったとき、枯れ木似の医者がそう言った。その時はじめて、医者はカルテではなく青葉の方を見て言葉を発した。

それを聞いたとたん、青葉は思わず泣いてしまった。医者に、目が溶けるから止めなさいと言われたが、水滴はなかなか収まらなかった。

千早のことを誰かに認められると、青葉は嬉しくて堪らなくなる。青葉は千早と出会うまで、千早のような人間がいることを知らなかった。

千早は、ただ純粋に人に優しくできるのに、その優しさを理解されずに生きて来た人だった。

青葉は氷のはちみつがけを奥歯でガリガリ砕きながら、右手中指の黒い指輪に触れている千早を眺める。

アセクシャルなんだ。

そう告白してくれた時も、千早は同じように指輪を触っていた。2年前、初めて二人だけで喫茶店に行って、コーヒーを飲んだ時だった。

右手中指の黒い指輪がアセクシャルの象徴であることを、その時の青葉は知らなかった。

私は性行為ができない。病気とかじゃない。ただ……したくないんだよ。恋も知らない。恋愛というのがよくわからない。だから、君を一人の”まともな”大人として愛することはできない。

人として、”冷たい”、”欠陥品”だから。

その時の千早は珍しく口数が多かった。まるで言葉で青葉の前に壁を築こうとしているようだった。

青葉は千早が黙るまで、黙っていた。

恋愛映画も好きじゃない。感情としては理解できるけど、自分とは無関係な感じがして、居心地が悪くなる。

”冷たい”人間だろう。多分、”精神が子供のまま”なんだ。”本当の大人になり切れてない”。私はそういう人間なんだ。だから、パートナーには”不向き”な生き物なんだ。人として”不完全”で、”優しさがない”。

私と一緒にいても、君はそのうち、”本当に愛されているとは思えなくなる”。私といても”幸せじゃない”と思うようになる。

千早がついに積み重ねる言葉を失った時、青葉は手を伸ばして、千早の右手に触れた。指輪を撫でて、言った。

誰に言われたの?

千早は目を閉じて、しばらく何も言わなかった。表情に変化はなく、いつもと同じ、静かで、植物を思わせるかんばせだった。けれど、閉じた瞼から漏れ出した雫は、やがて大きな粒になって、コーヒーの中に落ちた。いくつも、いくつも。

それから、二人でいろいろなことを話した。

好きな食べ物の話。

今、興味がある習い事の話。

これからどんなことがしたいか。

そんなことをたくさん話して、最後に、青葉は、千早と一緒にいたいと改めて伝えた。

千早は冷めたコーヒーの入ったカップを両手で包んでいた。伏せた目は真っ赤になっていたが、もう涙は溢れていなかった。

千早は青葉に視線を向けると、吐息を漏らすような声で言った。

私は、幸せになりたい。大切な人と一緒にいて、その人に幸せであってほしい。私といて、苦しくない人が、この世界に一人でもいるんだってことで、幸せだなあって思いたい。

青葉は一つ頷いた。それから、千早の右手を、その中指に嵌った指輪ごと包み込んだ。

千早はその時初めて、青葉に微笑んだ。それは密やかな湖にかすかな波紋が広がるような、

曖昧な美しさを孕んだ笑みだった。

そして千早は、はじめてあの口癖を青葉に捧げてくれた。

私を幸せにしてくれ。

「もう十分かい?」

千早が皿を軽く叩く音に、青葉は顔を上げた。たっぷりあった氷のはちみつがけは、すっかり無くなっていた。

青葉がごちそうさまと手を合わせると、千早は氷の入ったアイスコーヒーを淹れようと言って、皿を手に立ちあがる。

二人ともホットコーヒーが好きだったのに、今は青葉に合わせて、千早も飲まなくなった。

千早は優しい。

青葉は今に至るまで、セックスをする相手もいたし、恋愛と言えるようなものの経験もある。

けれどその時のどの相手にも、千早が劣るとは思わない。

青葉は自分の冷たい瞳にそっと触れた。

この瞳があとどのくらい形を保っているかはわからない。

けれど最後の瞬間まで、千早を見ていたいと思うし、その時の青葉が、幸せでいてくれればいいと思う。



続く

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