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4/5 滞りがあり、俳句がある

布団が友達。
しばらく休日に人と会っていないと、このまま特に人付き合いとかしなくてもいいな、という気持ちになる。
別に思想があってのことではなく、そういう構造になっている。「しばらく人に会わないと、会わなくていい気持ちになってくる」という構造がある。

最近、「そういう構造になっている」という考えが気に入っている。自分がこういう時にこういった気持ちになる理由として、「なんとなくそういう仕組みがある」という場合が結構ある。一本筋が通った人間ではないので、環境や習慣で気持ちが左右される良い加減な割合が存外大きい。

特に最近は相対主義的な見方をする癖がついている。みんなそれぞれ感情で動いていて、それがぶつかったり、まとまったり、別々に動いたりしているなぁと思う。そういう意味ではフラットで、多様性を認めるような気持ちにもなっていて、今まで妙に嫌いだった政治的立場の人も、自分と同じ「構造」で幾らかパラメータが違うだけの存在に感じられるようになった。ただ相対主義があまりに万能に感じているので、何かそれに対する批判を読みたい。護教論的であったり、社会性からの批判であったりするのは、下部フォルダの話に感じてどうも響かない。それは社会に対しての責任感が乏しいのもあるだろう。

俳句に興味がある。俳句に対しては感度が低く、面白みをあまり感じていなかったのだが、最近幾つか好きな俳句が出来た。とにかくは西東三鬼の「水枕 ガバリと寒い 海がある」を見て、不思議と鳥肌が立ったところが始まりで、芭蕉の「奈良七重七堂伽藍八重桜」、小西来山「酔ってさめて 氷くだいて 星をのむ」、森下草城子「鳴き終えて蟬がきれいになっておる」など、鳥肌を引き起こす句を集め始めた。日本的な情景と郷愁、それと音の美しさに自分のツボがあるような気がするが、どうも分からない。こうした言葉の使い方には恐るるばかりだ。同じ道具でこうも違うのかと思う。

ドゥーグル・J・リンズィーの「ペンギンと 共に師走を 肱二つ」もまた愛らしさがあって良い。

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