見出し画像

「仕方がない」という時は、「神の目」で世界を眺める時。

残念なメールからはじまった朝 不本意ながら「仕方なく」弁当を作る

当初、昨日開催予定だった中三の次男の体育祭が、今日(日曜日)もまさかの延期となり、平日に開催となったので今日は通常授業。

入学したのがコロナの真っ最中で、殆どの行事がなくなった次男の学年。久しぶりの大きな行事、そしてリーダーとしての最終学年。

延期となった平日は市内の教職員の研修があるそうで、プログラムを減らしての短時間になる。

準備していた先生方や子供たちの落胆を思うと胸が痛む。
そして何よりも、私は講座が入っているため見ることができない!

土日両方ともあけておいたのに・・まさかのまさか。

というのは、これまでの次男はウルトラスーパー晴れ男だったから。

保育園の頃から、遠足や運動会など何もかも晴れ。しかも天気予報を大きく引っ繰り返しまくってきた。

そんなことを思うと、運の尽きかしら・・となんとなくしょんぼりした気持ちになっていく

ついてないと一瞬でも思ったら、それは世界と手をつなぎ直すチャンス。

でも、これは実はレッスンのチャンスということは経験上知っている。

なんのレッスンかというと視座をあげるレッスン。世界とつながるレッスンともいえる。自分ひとりになってしまった意識を、世界と一緒にする、世界と手をつなぎ直すチャンス。

雨が降る、という事実に対して、ちっぽけな私の都合的には、ただ残念で、くそーと思う。

でも、宇宙の視座で見た時、この雨が、いったいどこの何とつながっているのかに意識を広げていく。

何が見えてくるかというと・・・
例えば、私を含め、体育祭に行く予定だった保護者は学校に行くかわりに別のことをする。

雨の日曜日、車で出かける人もいるだろうし、電車で出かける人もいるかもしれない。
その時、晴れだった時とは、まったく違う動きになる。自分だけじゃなくてそれぞれを取り巻く周囲が。

道路の流れが少しだけ変わる。その先には何かがある。そこに意識をむけていく。

そもそも昨日の土曜日も雨で延期。そのおかげで、私は次男を連れて近くのショッピングモールにサッカーのスパイクを買いにいくことができた。
サッカーや塾で忙しくなった息子と出かけられたことは私にとって嬉しかったこと。そして息子にとって新しいスパイクを買えたこと。

ポジティブシンキングは時に思考で感情を黙らせるだけだから・・・


このレベルだとでもそこに留まるだけだと、それは私や息子にとってのよかったことでしかないし、それはただのポジティブシンキングで終わる。
ポジティブシンキングは、思考で感情を黙らせるだけになりがちだから私は採用していなくて、それよりも意識はニュートラルにもっていけるところまで視座をあげていく。

例えば、予定外に私が車を運転したことで私の後ろを走っていた車の動きは晴れた時とは明らかに違うことになる。
私がいなかったら通過できた交差点があったかもしれない。
それがまた、その車の周囲の車の動きを変える。というか、そもそも雨だからその道路を走っている車は私たちだけじゃないだろうし。

それぞれの動きの先で起こることを知る由はないけれど、私たちは明らかに何かに動かされてお互いが自分たちのあずかり知らぬところで、互いに影響しあっていて、それがどう転がるかは全くわからない。

でも、確実に、何か遠くにあることのために動かされている。
そうやって視座をあげていくと、なんだか神の目でものを見るってこういうことかなという感覚になる。

神の目で見た世界は、自分は何もできない世界。
でもその中で、自分が選べるのは、目の前のその世界に対して自分がどう評価判断を下すかだけ。

体育祭を見ることができないのは、もちろん残念。

でも、時間をうーんと長く伸ばすと、保育園時代から今にいたるまでの息子の運動会の様子をことこまかに記憶しているかと言われたらそんなことはないし、それぞれのタイミングで成長を見届ける喜びは代えがたいと思いつつ、でもそれらは時間の経過とともに確実に流れていく。

だから、今は、くそー残念だーと抱いている感情は、一年後もあるわけじゃないことに気づく。
いや実は、こうやって時間や空間を広げているだけで、既にその感情は殆ど消えかかっている。
もちろん、体育祭当日の朝や、その日の夜に様子を聞いたりする時には、残念見たかったな、と思う気持ちは再燃するはずだけれど、でもその感情もやがて確実に消えていくのだから。そこを握りしめなければいいだけの話。

「仕方ない」という時は、大きな何かに委ねさいという時

自分にはどうしようもないことが日々目の前で起こる。
そんな時によく、仕方ないねと夫と話す。
仕方ない、とは、なすすべがない。方法がない。
自分にはいかんともしがたい事態ですよ。ということ。
自分の非力さに嘆くこともできるけれど、

別の見方をしたら、それは、大きな何かに委ねるしかないということ。

自分の感情も、抑えようとしてもできないとしたら・・・
目の前の相手を変えようとしても変えられない、としたら・・・

てるてる坊主を10個も20個も作っても、
それでも雨が降る時は降るし、降らない時は降らない。

だとしたら、それらはみんな仕方ないこと。自分にはどうにかできる方法を持たない。というか、持たせてもらっていないということだから・・。それは大きな何かに委ねなさい、ということじゃないかと思う。


委ね方にも色々とバリエーションがある。

もちろん頭でわかっていても自分の感情がおいつかなくて、委ねきれない時もある。

でも、その委ね切れない状態も、仕方ない時、つまり、委ね切る方法がない時、だから、そんな時にできることは、そんな自分に抵抗しないことだけ。
抵抗するから人は苦しくなるのだから・・・ただその場に身を置く。それがその時の委ね方なんだろう。

一言で、委ねる、といっても、バリエーションがある。

たとえば今日のような、残念な事態が起きた時に、なかなか有効なのが、意識を広げていくこと。時間や空間の捉え方を変えてみること。神の目になってみようとすること。

前述した、私が車を運転したことで起こる世界の変化を想像する、もそのひとつ

それから、例えば、自分が体育祭に行かないことで起こり得る、よさそうなことに想いを馳せてみる。

例えば、私の代わりによく見える席を確保できる人がいるかもしれない(私は、かなりでかい)
私が、行って話し込む可能性のあったママ友が、私が行かないことで、別の誰かと話し込むことになり、その人が何かお得な情報を得るかもしれない。


私たちのすることはすべてバタフライエフェクト。


小さな蝶々の羽ばたきのエネルギーが地球の裏側に影響を及ぼす。それがバタフライエフェクト。

私たちは、どこかで何かの影響をもたらしあって生きている。

自分がしたこと、あるいはしなかったこと、によって遠くで起こる変化の殆どを私たちは知る由もない。けれど、それらがお互いに影響しあってより良い方向に進むと信じていれば、目の前の残念に感じるできごとも、それほどいやなものにならない。それは結果としてどうなるのかはあずかりしらないけれど、少なくとも自分にとっていやな気分になることは減る。

自分がいかんともしがたい、「仕方ない」状況だから、そのできごとに対する責任を私たちはとれない、取れないというと無責任だけど、取りようがない。でも少なくとも自分の気持ちはなんとかできる。レッスンを続ければ。

未熟な自分に愕然としながらも、進むしかない。


ある時期まで、私は自分がかかわった受講者さんが、その場で変化して欲しいと思っていた。だから何でもかんでもアドバイスして講座の予定時間を大幅に延長するような時もあった。無理やり相手を変えようとしていた。全く無自覚に。それがお客様のためだと、信じ込んでいた。ただの過保護な母親状態。いい迷惑だ。
当然ながらそれをしたからといって相手がこちらの期待するようにはならない。
すると、その相手に怒りすら覚えることもあったんだと思う。なんて自分勝手な独り相撲をとっていたんだろうか。

怒りを覚えることもあったんだと「思う」と書いたのは、当時の自分にはその自覚はなかったから。
自分はただただ必死で一生懸命だった。それは私の未熟さでしかない。
当時を思うと穴をほって埋めたい自分がいて、愕然とするけれど、でも、それも「仕方ない」。だって自分にはどうしようもできなかったのだから。

悔やんでいる時間やエネルギーがもったいないので、そこに気づいたら改善の努力をするしかない。

そこに気づいた今は、自分にできることは精一杯させてもらう、つまり湧いてきたことは率直なアドバイスとしてお伝えもするけれど、それで相手が大きく変化するというような結果に囚われないように心がけている。いつもできるわけじゃないけれど・・・。


ありがとうと言われたいエゴを超える

私がかかわらせていただく意味を、私が全部知らなくてもいい。
私とのご縁がなくなった時に、私が撒かせてもらった種が、発芽する時があるかもしれない(し、ないかもしれない)
その時には、私がありがとう、のむ子さんのおかげです。と言われることなんか絶対にない。

エゴの私は、ありがとうと言われたくなる。でも、そのエゴは自分を苦しめるし、自分が苦しければよい仕事はできないから、結果として本質的に相手の役に立つことはできない。仕事の質を落とすだけ。

だから、仕方ない、時は、天に委ねる方が、自分もラクだしその方が結果としてうまくいく。


朝起きて雨ふり、体育祭の延期、というブルーな事態をあらためて、捉えなおしたらこんなところにたどり着くから、やっぱり委ねていくと面白い。

息子の神通力も、世界のために使う時期がきた


もう一つだけ、思ったこと。保育園時代から、発揮してきたスーパー晴れ男の次男。彼のこの神通力も、体や心が大きく成長する時期になり、自分のためだけじゃなくなったんじゃないかなと。

今日の雨はきっと、新緑の木々を潤す大切な雨

そして今日は通常授業。学校でお友達との会話の中で、お互いが未来につながる何かになるといいね。

というわけで、長くなりましたがこのへんで。

こうしている間に、ママ友から参加できることになったから、録画するよ、というLine。ありがたい。やっぱり世界はつながっている。
私たちは一人じゃない。だから私は私にできることをしよう。

次男の中三の体育祭、こうして書き連ねることで、忘れられない記憶として深まっていく。自動書記やっぱいいな。
これぞ予期せぬ偶然という名の必然。serendipの屋号で開業しようとして挫折した経験も、思えば今につながっている。

というわけでほんとうにこのへんで。
お読みくださってありがとうございます。感謝をこめて




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?