東京ヤクルトスワローズ・背番号史「23」

1950:山口礼司
1951~1952:木下雅弘
1953~1954:安居玉一
1955~1956:松橋義喜
1957~1967:飯田徳治
1968~1976:簾内政雄
1977:槌田誠
1978~1982:柳原隆弘
1983:萩原康弘
1984~1990:酒井圭一
1991:石橋貢
1992~1997:増田政行(康栄)
1998:白井康勝
1999:リッチ・バチェラー
2000~2001:藤井秀悟
2002~2003:戎信行
2004~2009:青木宣親
2011~2015:山田哲人
2018~:青木宣親


黎明期は「重い番号」であり慌ただしい変遷を辿りながら、飯田徳治が萌芽を育てた「23」。

今でこそ東京ヤクルトスワローズの「23」は価値のある背番号となっていますが、1チームに所属する選手の人数が40人を下回っていて当たり前だった1950年代のプロ野球において、「23」は決して若い番号ではありませんでした。
初代背番号「23」の山口礼司は9試合出場、8打数1安打に終わり1年で退団。1951年に「37」から変更した木下雅弘も特筆すべき結果を残せず2年で「22」に変更しています。
1953年に大洋ホエールズから移籍して「23」を着用した安居玉一は、戦後すぐの大阪タイガースでダイナマイト打線の一角として活躍した実績があります。しかし国鉄ではレギュラーとしてプレーしたものの2年で自由契約となり、これまた定着せずに退団。1955年に「45」から変更した松橋義喜も「23」を着用した2年間では1試合のみの出場に終わり、1956年限りで現役を引退しました。

そんな中で初めて「23」が定着したのは、1957年に南海ホークスから移籍した飯田徳治。南海時代は二塁手・岡本伊三美、三塁手・蔭山和夫、遊撃手・木塚忠助と「100万ドルの内野陣」を形成、1955年にはパ・リーグMVPを受賞するなど、攻守に渡って中心選手として活躍していました。移籍にあたっては10年選手(現在のFA制度に似たようなもの)の権利でボーナスを得ようとしたものの南海がそれを渋り、金銭トレードの形で国鉄へ加入すると言う流れがありました。
ともあれ国鉄に移籍…………南海時代も「23」を背負っていたのでそのまま着用した飯田は低迷が続くチームの中で中心選手として気を吐き、移籍初年度の1957年には自身初の盗塁王を受賞。その後も中心選手としてプレーを続け、1963年に現役を引退。通算1978安打を積み重ねています。
選手としてのキャリアは1963年で終えたものの、1961年から2年間は選手兼任コーチとしてプレーし、1964年からはヘッドコーチを務め、1966年からは監督として指揮を執っています。監督時代の飯田はチームの戦力不足に加え人柄の良さが仇となった部分もあり、5位タイ(最下位)・5位に終わり結果を残せなかったものの、選手・コーチ・監督とのべ11年に渡り在籍し続けてスワローズの歴史の一部を成した人物でした。

若い番号へと立ち位置を変えながら、再び激しい変遷を経て終えた20世紀の「23」。

飯田の退団後に「23」を背負ったのは、1967年ドラフト2位で入団した簾内政雄。社会人の日本鉱業日立で実績を残した簾内は1年目から一軍での登板機会を得、1970年には救援として自己最多38試合に登板。翌1971年には5勝をマークしますが、通算135登板で9勝2セーブを挙げるに留まり1976年限りで現役を引退します。
1977年は巨人から移籍した槌田誠が「23」を着用。槌田はV9巨人経験者の1人で、ポジションが捕手だったために不動の正捕手・森昌彦から定位置を奪えず、後に外野手へコンバートしても柴田勲・高田繁・末次民夫ら層の厚いレギュラー陣に定位置定着を阻まれていましたが、代打などで出場機会を少なからず得ていた選手でした。移籍した1977年は槌田の野球への姿勢を買っていた広岡達朗監督によって開幕スタメンへ起用されたものの、結局39試合で打率.103と結果を残せずに1年で現役を引退します。
1978年からはドラフト1位で入団した柳原隆弘が「23」を着用、しかし柳原も一軍では結果を残せず1982年オフに近鉄バファローズへ移籍。
1983年に広島東洋カープから移籍して「23」を背負った萩原康弘は、前述の槌田と同じくV9時代の巨人を経験。しかしヤクルトでは10試合で無安打に終わりこの年に現役を引退しました。

1984年に「18」から変更した酒井圭一は、長崎・海星高時代に「サッシー旋風」を巻き起こした甲子園のスター。しかし1977年の入団後は怪我もあって大成出来ていませんでした。背番号を変更した1984年は中継ぎとして自己最多42試合に登板し1981年以来の白星を挙げましたが、その後継続して活躍は出来ず。勝利投手となったのはこの1984年が最後で、1987年に28試合、1988年に34試合へ登板したものの、故障に悩まされて通算6勝4セーブ止まりのまま1990年に現役を退きます。

酒井の現役引退後、1991年に横浜大洋ホエールズから移籍した石橋貢が「23」を背負うものの、1試合のみの出場に終わりこの年で現役を引退。
1992年からはドラフト3位でプロ入りした増田政行(康栄)が「23」を着用しますが通算36試合の登板に終わり、1998年に「52」へ変更。
1998年は広島東洋カープから移籍した白井康勝が「23」を着用。日本ハムファイターズ時代の1993年には10勝を挙げた経験がありましたが、ヤクルトでは一軍登板がなく現役を引退しています。
1999年は当初空き番で、シーズン途中に加入したリッチ・バチェラーに「23」が宛がわれます。しかしバチェラーも故障の影響で結果を残せず、この年限りで退団しました。

1970年代~1980年代はある程度安定した継承が行われていた「23」でしたが、選手は目立った成績を残せず。1990年代も6年間着用した増田を含めても、ほぼ一軍の舞台で陽の目を見ることがなかった番号でした。
ちなみに、1990年代にヤクルトと同じく黄金期を迎えていた西武ライオンズの「23」は、バイプレーヤーとして活躍した大塚光二が一貫して着用。その対称性を窺い知ることが出来ます。

「23」に出世番号の面影を見せた藤井秀悟、そして青木宣親から山田哲人への系譜。

「23」が一軍の舞台で輝きを放つのは、1999年ドラフト2位逆指名でヤクルトへ入団した藤井秀悟の手によってでした。
藤井は今治西高時代に「伊予の怪腕」と呼ばれ甲子園出場を経験、進学した早稲田大では東京六大学リーグ通算24勝を挙げる活躍。プロでもルーキーイヤーの2000年に救援として31試合へ登板すると、転向を希望し変化球を習得して臨んだ2001年は先発ローテーションの一角として14勝をマーク。最多勝を受賞し、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献しました。その藤井は2002年から「18」へ変更しますが、「出世番号」としての実質的な第1号は藤井と言って差し支えないでしょう。

23」はその後、2002年から2年間はオリックス・ブルーウェーブから加入した戎信行が2年間着用。戎は2000年にパ・リーグ最優秀防御率を受賞した実績がありましたが、ヤクルトでは6試合の登板で1勝を挙げるに留まっています。

戎の退団で空いた「23」が一気に価値を高めるのは、青木宣親の登場によってでした。
2003年ドラフト4巡目で入団した青木は、早稲田大学時代に1学年上の和田毅(福岡ソフトバンク)、同期に鳥谷敬(元阪神・千葉ロッテ)・比嘉寿光(元広島東洋)・由田慎太郎(元オリックス)、1学年下に田中浩康(元東京ヤクルト・横浜DeNA)、2学年下に武内晋一(元東京ヤクルト)・越智大祐(元巨人)を揃える豪華な布陣の中でプレー。実績も十分あった青木はルーキーイヤーの2004年に二軍で打率.372をマークし首位打者と最高出塁率を獲得、満を持して一軍に殴り込みをかけた2005年にはいきなりシーズン202安打をマークして最多安打、そして首位打者に新人王を受賞しました。
一気に東京ヤクルトを代表する選手へと台頭した青木はその後、「23」を着用していた2009年までに首位打者2回、盗塁王1回、最高出塁率2回、最多安打2回のタイトルを獲得。ベストナイン・ゴールデングラブの常連にも名を連ね、チームだけでなく「日本を代表するアベレージヒッター」としての名をほしいままにしました。日本代表としても活躍を見せ、2006年と2009年のWBC連覇に貢献。2009年にはWBCベストナインも受賞しています。

青木は2010年からミスタースワローズの称号たる「1」へ背番号を変更しますが、以前「1」の背番号史で述べた通り青木は「1」を着用することに抵抗があったようです。それが結果的には「23」の価値を高めたことになりましたが、同時に「青木宣親に比肩する存在でないと似合わない」番号になったことも事実でしょう。

2010年の欠番期間を経て、2011年に「23」を与えられたのはドラフト1位で入団した山田哲人でした。
山田はドラフト1位での入団ではあったものの、ドラフト会議では「ハンカチ世代」の大学卒業時期とバッティングしたこともあって、指名はともに大卒の斎藤佑樹(元北海道日本ハム)・塩見貴洋(元東北楽天)を外した「3回目」。しかしドラフト時に「1番行きたい球団」と願っていた東京ヤクルトへ入団することになった山田は、プロ入り後に予想を大きく超える成長曲線を描くことになります。
ルーキーイヤーの2011年は一軍出場こそなかったものの、二軍では全試合に出場。チーム状況も相まってクライマックスシリーズで高卒新人野手初の先発出場と言う「一軍デビュー」を果たします。2012年からは一軍での出場機会を得、2013年には二塁手にコンバートされて94試合に出場し打率.283に9盗塁をマークしていました。
徐々にブレイクへの期待を抱かせる中、それが爆発したのが2014年。二塁手のレギュラーを完全に我が物とすると、143試合に出場して打率.324、29本塁打89打点をマークして大ブレイク、一気に球界を代表する選手へと躍り出ます。

その勢いは留まることを知らず、翌2015年は143試合にフル出場。打率.329、38本塁打100打点、34盗塁をマークしてトリプルスリーを達成します。セ・リーグでトリプルスリーを達成したのは1995年の広島東洋・野村謙二郎以来で、リーグとしては史上最年少。球界全体ではパ・リーグで福岡ソフトバンク・柳田悠岐も達成、1950年の松竹ロビンス・岩本義行と毎日オリオンズ・別当薫以来の「両リーグ同時達成者」となり、球界以外ではこの年の新語・流行語大賞の受賞者ともなっています。
この年東京ヤクルトは14年振りのリーグ優勝を達成しましたが、本塁打王と最高出塁率のタイトルを獲得し、ベストナインも2年連続で受賞、シーズンMVPにも輝いた山田はその原動力……いや、その言葉だけでは足りない貢献を見せました。
プロ入りからわずか5年で「ミスタースワローズ」の襲名権利を得た山田は、翌2016年からその象徴たる「1」へ背番号を変更。「1」に変更してからの活躍は以前書きましたし、皆さんもご存知でしょう。一方で、「出世番号」になった「23」は2年の欠番期間を迎えることになります。

23」を引き継ぐ、「次世代のホープ」は誰か。
しかし後を継いだのは、かつてその背番号を背負い価値を押しあげた青木宣親自身でした。
2012年からメジャーリーグに活躍の場を移した青木は、2017年オフに当時在籍していたニューヨーク・メッツをFAとなります。そのオフのMLBは歴史的に移籍市場が停滞し、その煽りを受けて青木の所属球団は決まらないままでした。日本で春季キャンプを数日後に控えた1月29日、青木は電撃的に古巣復帰を決めます。
1」を着用した選手がメジャーリーグへ挑戦し古巣へ復帰するパターンは、実は青木の前に岩村明憲が演じていました。しかし岩村は日本球界への復帰時に東北楽天でプレーし、戦力外通告を経ての復帰。全盛期の力は結果的にも見せられず、岩村は入団当時の背番号である「48」を与えられていました。
仮に「1」が空いていれば、青木は結果を残せずにメジャーリーグを去ったわけではなかったので、岩村のようなパターンにはなっていなかったかも知れません。ただし前述の通り、「1」は既に山田が継承しています。恐らく「特に理由はなくその時空いていたから」だったとは思いますが、結果として「23」は青木の背に戻りました

日本へ復帰してからの青木は、メジャーリーグをも経た豊富な経験とさらに円熟味を増した打撃技術を発揮して、チームを牽引します。
復帰初年度の2018年は打率.327をマークしてチームの2位浮上に貢献。2019年もチームトップの打率.297を記録し、キャプテンに就任した2020年も打率.317のハイアベレージを叩き出しています。2021年は不振で打率.258に終わったものの、レギュラーとしてチームのリーグ優勝と日本一を経験。青木にとってはこれが自身初の美酒でした。またこの年、日米通算2500安打を達成しています。
2022年には不惑を迎え、今季は42歳で迎える青木ですが、ともすればまだまだ引退の文字が遠そうなパフォーマンスを示しているのは「さすが」の一言。日米通算3000本安打まではあと297本で近年のペースからすると5~6年と厳しい数字が出るものの、全くの夢物語でもなさそうなイメージを抱かせるところに青木の凄みが出ているでしょう。

それでも、いずれ青木が現役生活に別れを告げる時は来ます。
青木の後、「23」が誰の背に渡っているかはやはり注目したいポイントです。「1」とは違って「若手の有望株」へ与えられる流れが付いた背番号なので、これぞと言う逸材の背に収まってくれれば「青木→山田」の系譜に乗ってくれるものと思います。ただ最近のNPBの流行り……それこそ現在の高津臣吾のように、引退してしばらくのち監督に就任することとなった青木の「現役時代の背番号が空いているから」、「23」を背負う可能性も無きにしも非ずか。個人的にはあまり好きではない流れですが効果がいくらかあるのは理解出来るので、それでもいいのでしょう。もしくは「1」と同じように準永久欠番のようになるかも知れませんが、東京ヤクルトは永久欠番を採用していないチームなので、その扱いになったとしても歓迎します。
数年後か10年以上経った後になるかは分かりませんが、願わくば将来は青木、山田に続くまだ見ぬ若き逸材が選手として「23」を背負い、グラウンドで躍動する姿を見たいものです。今はまだ青木の背にあるので、青木の出来る限り長い活躍も当然期待はしていますが。

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