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自然とは何か、他者とは何か…



自然というものが
わからないんだよ、ぜんぜん…!

赤ちゃんを、肩に背負いながら三島由紀夫氏に、こう投げ掛けたのは、東大全共闘Cと呼ばれた芥正彦氏だ。



『東大全共闘VS三島由紀夫50年目の真実』の全編を視た。

予告編と同じように、やはりこの人たちはいったい何を言っているのか、何が言いたいのか、ほとんどわからない、という感想は変わらない…

この学生たちは何故にあれほどの暴力闘争を繰り広げたのか?

その激しい情動は『三島由紀夫VS東大全共闘』の討論からは、読み取れない。

政治的、イデオロギー的な対立もあまり感じられないし、火花を散らす討論というよりは、三島氏のウィット溢れるユーモアにつられて、常に爆笑渦巻く哲学交歓会のようにも見える。

そもそも、なぜ三島由紀夫氏を呼んだのだろうか….三島氏は、全共闘にとって、デウス・エクス・マキナ的役割を担ったのだろうか…?

時系列で見ると、討論会は1969年5月に行われたが、同年1月に起きた安田講堂事件は、すでに沈静化していた。
そして、翌年11月に、三島由紀夫の自決事件(三島事件)が起きた。

結論から言えば、全共闘も三島由紀夫氏も、それぞれ時代の中で〝玉砕〟してしまった人々だ。

なぜ70年代初頭の、高度経済成長期のさなかに敢えて〝玉砕〟する必要があったのか?

私は、この映画を観て、勉強になったというほどには、内容を咀嚼できていない…

ただひとつ感じたのは、世の中には大きく分けて二つの考え方があるということだ…



他者とは…



全共闘Aと呼ばれる学生の木村修氏は、三島氏に対して「三島さんにとって、他人とはどういうものか?」と質問した。

もちろん、これは教えを乞うているのでもなく、三島氏の認識をあらためて表に引き出すために質問したのであろう。

三島氏は、答えた。

「 他者というものは、自分にとってはどうにでも変形され得るオブジェであるべきだ…
(中略)
そういうものを人々は欲求しているのです。
(中略)
しかるに相手が思うようにならんと、われわれが他者との関係が難しくなってくる。
非エロティック的になってくる… 」

これは一体どういう意味か?



人々は…というが、これが一般的な感覚とは思えないし、〝他者〟という定義に対し、万人が同じ認識を持っているとは思えない。

〝他者〟で引くと『他者論』とか、レヴィナス、サルトル、フッサールなどの哲学者の名前が出てくる。

彼らはおそらく、この『他者論』について論議しているのだろう。

ここで高尚な哲学について考察する知識は、私にはないので、『他者論』の詳細については宿題にしておこう…

ところで、これを読むあなたは他者(他人)を、自分の支配欲の対象と見るであろうか…?

〝二つの考え方〟とはここで別れる、と思われる…

三島氏の言うレヴィナス的な〝他者〟への視線は、男性的支配欲の極致のようで、私のような軟弱な人間から見れば、やや危険な匂いも感じてしまう…

そこからは、なぜかニーチェのいう〝アポロン〟と〝ディオニソス〟の対立が甦る…

これは、あくまで私見だが、三島氏の言う支配的な欲求には、〝アポロン的〟理想主義が思い浮かぶ。

それは、自身の肉体を理想化するような、ボディビルにも象徴されるようだ…

自分の肉体だけならまだしも、他者(外界)に「完成形」を求めてゆくとしたら、ちょっと怖さを感じざるを得ない。

『全体主義』や『優性思想』などにも及ぶ懸念も…

では、三島氏に対立する全共闘の学生が逆に〝ディオニソス〟なのか?

大学のキャンパスを、メチャクチャにした学生らの肩を持つつもりは毛頭ないが、彼らは彼らなりのユートピアを創ろうとしたのではないか?

『自治権』が認められた大学のキャンパスを「解放区」と名付け、可能な限り自由や権利を行使しようとした学生ら…。それはあまりにも過激だったが…

「自然というものがわからない」と言う彼らが求めていたものこそ「自然」だったのではないのか?

三島氏は、東京の高層ビルや機動隊も、自然だと言う。

たしかに宇宙の彼方から見れば、高層ビルも、機動隊も、ホモ・サピエンスという〝生物〟が作り出した自然の一部かもしれないが…

三島氏に言わせれば、「生産関係から切り離された」ところで、屁理屈ごねてないで、早いところ現実に目覚めて(自然の流れで)東大生らしくピラミッド官僚社会に納まれということなのだろうか?

芥正彦氏へのインタビュー(2009年)のなかで氏は、若者の活動の根源として、リビドー(性的欲動)を強調していた。
戦前、戦中は、そのリビドーはすべて戦争に持って行かれたと…

他者への支配や、人工的な完成事物に、エロティックを感じる三島氏と、人間の自然な欲求(リビドー)を芸術として昇華、表現しようとする芥氏との相違に、アポロンとディオニソスの対立を見るような気がする。

そして、映画の終わりの方では〝天皇〟について議論するなかで、ある学生が三島氏に「共闘してくれないか…?」と、問いかける場面があった。

学生にとっては、真逆の考えの持ち主のはずの三島氏に対して、イデオロギーを超越してインスパイアされたのだろうか?

三島氏自身が先刻言ったばかりの「他人とは、どうにでも作り替えることができる…」という言葉が、早くも効を奏しているのではないかと、ちょっと怖くなるが…

三島氏がその気になれば、この1000人を、説得するどころか自分の思考に塗り替えることもできたのか…?
もしそうなれば〝共闘〟どころか〝ミイラ捕りがミイラ…〟になってしまうだろう。



「自然とは何か?」と問われれば、私は「人工的ではないもの…」と答えるだろう。

手付かずの原生林…、白神山地のブナ林とか、知床半島のヒグマが出そうなところとか、無人島のジャングルとか…

厳密にいえば、田園や植林された山林は、人工的だ。植物や家畜も化学肥料・飼料が投与され、遺伝子がイジられた人工的なものが多い…

ただ、何でも気にせず食べているので、今さらオーガニックにこだわりはないが…

さらに「他者とは何か?」と言えば、あたりまえだが、自分以外の者だろう…

極端に言えば、人間から見て「他者」とは、人間以外のもの。即ち「自然」だ。

〝人間(人工)と自然の対立〟

これが西洋的近代的思考だ。

自然(原始)とは、人間にとって克服すべき、支配すべき対象…

ウィルスも、鹿も、熊も、人間にとって有害となれば直ちに駆除対象となる。

三島氏のいう「他者」とは、自分以外のもの「自分の思い通りにならない、アウトオブコントロールなもの」は、すべて支配下に置かなければならない対象物なのだろう。

ただし『東大全共闘』は、三島由紀夫氏と対決していたわけではない。

対決していたのは、東京大学だけではなく、〝現代合理主義〟という目に見えない「悪魔」だったのかもしれない。

三島氏の言うとおり、彼らはその後その「生産関係」の歯車となっていったが…

ただ、ここへ来て〝青っ白い〟と思われた彼らの主張が、正しかったのではないか?と思われる現象が起こりりつつある。

このままノーブレーキで〝合理主義〟を突っ走るのか、そろそろブレーキを掛け始めた方が人類にとって〝身のため〟なのか?

そもそも、どうやってブレーキを掛けるのかがわからないが…

〝二つの考え方〟

とは「自然」とか「他者」というものを
相変わらず〝支配下〟に置く、のか

あるいは
〝あるがまま〟に受け入れ共存する

のかとの相克である。


これは『全共闘』の思想や、三島氏との討論をまとたわけではなく、私が勝手に感じたことを、羅列したまでです…


東大全共闘 26年後の証言