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カトリックな地鎮祭―聖光学院中学・高等学校に奉職してまもない頃

 カトリック学校の教員として働き始めたばかりの頃、新校舎建築のための地鎮祭に参列した。30年以上前の出来事である。

 整地された土地に張られたテントで多くの同僚とともにパイプ椅子に着席していると、笹と標縄(しめなわ)と盛り土が準備されていて神主さんが入場してくる。

 榊(さかき)をふりまわしてお祓い(おはらい)をする神主さん。

 理事長や校長をはじめ、学校法人の理事会の構成メンバーでもあるブラザーたちがこうべを垂れてお祓いを受けている。

 カトリック校のブラザーが、日本の神道の儀式に参加し、神主さんのお祓いを受けるという光景。

 日本の建築会社への配慮なのだろうか。見ていた私にとっては、まさかの展開であった。

 やがて、神主さんのおはらいを受けた建築会社の重役たちと理事長が、木製の鍬(くわ)を持って盛り土に近づいていく。

 そして、事前に打ち合わせをしていたのだろうか、呼吸を合わせて真っ直ぐに振り上げた鍬を盛り土に突き立てる。

 と、同時に、「えいっ!」という声が響きわたった。

 自信満々の声は、何度もこうしたことを体験しているはずの建築会社の重役たちだ。

 そこに、フランス語なまりのブラザーのかけ声がやや遠慮気味にかぶさる。

 カナダのケベック州から来日したキリスト教のブラザーが、神道式の鍬入れ式に参加しているのだ。

 まさか、まさかの展開である。

 驚愕のドラマには、まだ続きがあった。

 鍬入れ式が終わって神主さんが退場する。

 それを眺めていた私の視線の端から、なんと、侍者とともにカトリックの神父様が入場してきたのだ。

 じゃらじゃらと鈴を鳴らし、お香を焚き、地鎮祭の会場をぐるりと一周しながら聖水を撒いていく。

 「まさか」を超越した世界である。

 異郷の地でなされた異教徒の儀式は、神父様の撒く聖水によって清められていく。

 すべてはなかったことに?

 呆然としている私の前で、あたりまえのように地鎮祭は終幕を迎えた。

 「世界宗教」としてのカトリックの真髄を見せつけられたような気がした。



          未


※アーカイブされているFacebookのノート「カトリックな地鎮祭」より


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