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いかなる戦争も大義などというものはあるはずもなく、そこにあるのは、ただの失政の姿なのです──門田隆将『慟哭の海峡』

2013年10月、2人の老人が亡くなりました。生前、無縁であったにもかかわらず、この2人にはある共通した思いを寄せたことがあったのです。それは、フィリピンと台湾の間にある「バシー海峡」への思いでした。この海域は「輸送船の墓場」とも「魔の海域」と恐れられ、10万とも20万とも数えられる日本兵が犠牲になった場所でした。

1人はその海域から生還し、1人はその海域で最愛の弟を失いました。戦友への鎮魂、戦死した弟への熱い思い……。その海峡は、2人の後半生を大きくかえるその場所は(誤解をおそれずにいえば)戦後の生の原点というものだったのかもしれません。

生還した兵士は中嶋秀次さん、昭和十九年八月に潜水艦の攻撃にあい乗船していた輸送船が沈没。救助船はやってきたものの、中嶋さんたちは発見されず、炎天の海上で12日間に渡り、筏で漂流したあと、からくも救出されたのでした。
海に投げ出された時には50人近くもいた戦友たち。次々と死し、海底へと沈んでいく兵士たち……。

筏に残ったものたちにも容赦なく過酷な死がやってきます。飢えで死に、また狂気に陥り死の罠に陥った仲間たち。飲んではいけない海水を飲まずにはいられない漂流の日々……。そして最後に残った2人。

朦朧とした意識の中である葛藤が生まれます。この地獄の12日間の描写には戦慄さえ覚えます。

生き残った中嶋さんには先だった戦友への思いしかありませんでした。救出後の入院と治療、養生の日々……退院した中嶋さんは周囲の反対を押し切って再び大陸の戦場へ志願していくのでした。そこには誰にも言えない戦友たちの死というものが中嶋さんの心に重くのしかかっていたのです。

そして迎えた敗戦。そこからの日々はあの海峡で死んだ戦友への鎮魂の毎日でした。
苦難を乗り越えて台湾の南部に建立した潮音寺。ここからは遠くバシー海峡がうかがえます、おそらくはありし日の戦友の姿も……。

けれど平和の日々は次第に潮音寺を訪れる人々が少なくなっていく日々でもありました。ある日そのお寺の土地が買収されたとの通知が中嶋さんにもたらされます。必至に潮音寺を守ろうとする中嶋さん。ひたすらに戦死者の鎮魂を願っていた中嶋さんをおそった最後の試練でした。車いすでの出廷、異議申し立てをした中嶋さんに向けて裁判官が言った一言……
「私には良心がある」
……とても重い言葉でした。目頭が思わず熱くなりました。

「魔の海域」で戦死したのはアンパンマンの生みの親、やなせたかしさんの最愛の実弟、柳瀬千尋さんでした。中嶋さんの生還から4ヵ月後の12月、駆逐艦に搭乗していた千尋さんは潜水艦の攻撃に遭い、戦死(おそらくは即死)しました。
京大生だった千尋さんは
「昭和十六年十月、京都帝大に組織として「報国隊体制」ができ上がった。総長を「報国隊長」とし、その下に各学部長・配属将校・学生主事らのよって「委員会」本部がおかれ、各学部には部隊が組織されたのだ。(略)戦争には批判的だったはずの京都帝大に、あっという間に「戦時体制」が敷かれたのである」
という空気の中で海軍へと志願していったのです。世情の変化の急さがそこにはあったのではないでしょうか。気がついたときには戦争への流れに巻き込まれていたのです。

スポーツに学問に優れていた自慢の弟でした。やなせさんは複雑な家庭事情の中でこの弟を心底愛し、信頼していたのです。その弟を奪った戦争、それに対するやなせさんの思い、強い反戦への願いはやなせさんの生涯を通して変わることがありませんでした。
写真で窺える千尋さんの面影は、どこか初代のアンパンマンを思い浮かべさせるものです。アンパンマンの犠牲的精神もそのもとには千尋さんの心情が流れているのではないでしょうか。やなせさんの戦後の苦しかった日々、それを支えていたのは弟さんへの思いだったのかもしれません。

1人は生還し、1人は戦死と一見、明暗が別れているように見えるのは錯覚なのかもしれません。生還もまた地獄の日々だったのです。
なんのための戦争だったのか……いかなる事由があろうとも戦争を正当化するものなどどこにもありません。戦争が政治の延長である限り、いかなる戦争も大義などというものはあるはずもなく、そこにあるのは、ただの失政の姿なのではないのかと思い返させてくれた1冊でした。(戦艦武蔵が発見されたようです。大きなニュースですが、その一方でまだ多くの艦船、軍艦だけでなく輸送船もいまだ沈んでおり、また戦死したパイロットたちやその機も、敵味方とわず多くが沈んでいるのだなとも、あらためて感じました)

書誌:
書 名 慟哭の海峡
著 者 門田隆将
出版社 角川書店
初 版 2014年10月9日
レビュアー近況:先ほど、関東電気保安協会の方が仕事場の電気設備点検に来られました。関西ではあまりにも有名なTVCMでお馴染みの保安協会、4年に一度こういった点検を各戸されるのですね。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.03.04
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=2996

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