ここ２、３年で、夫婦そろって物忘れが酷くなった。
妻が忘れて、私も忘れて、話にならない。
話にはならないが、夫婦の会話にはなる。

「今日、テレビにあの人が出ててね・・・」
妻が話し始める。
「どの人？」
「最近、テレビをあんまり見ないから、久しぶりに見たんだけど、
あのー、若い頃は結構出てて、ほら、CMとかにも出てた…」

有名人の名前が出てこないのは私も同じだが、妻の場合、ヒントが出てこない。若い頃というくらいだから、それなりの歳の人なのだろうということだけが、今のところ推測できる唯一のヒント。

「そもそも、男の人？　俳優さんでいいの？　他のジャンル？」
「違う、女の人。たぶん女優さんでいいと思う、歌も歌ってたかなぁ？」
「どんなドラマに出てたの？」
「あれあれ、あのなんかドロドロしてて、私は面白かったやつ。」
本人は至って無自覚だが、妻は本当にヒントをくれない。

「そのドラマ、他は誰が出てたの？」
「主人公はあの人で、ほらっ、あの人よ。すごい人気のあった、Ｔシャツとジーパンばっかり着てた。で、女の人はあれよ。あっ、この女の人は今日のテレビで見た人とは違う人で、でも凄い有名で。テレビで見た方の人とＴシャツの人を取り合うみたいなドラマで。」
もう、無茶苦茶なのだが、そこは夫婦。なんとなく解る。

「あのー、あれ、あの人の奥さん。・・・あっ、そうそう、山田智子！」
「山口智子やろ。」
「ごめんごめん、山口智子！頭ではヤマグチって思ってたのに、何でか解らんけどヤマダって言ってた。そう山口智子。私が思い出したいのは違う方の人だけど。山口智子のドロドロしたドラマに出てた人。」
妻が少しだけ間違えるのは特技なので、私はとくに気にならない。
それよりも、なんとなくだったけど間違いないと思う、あのドラマだ。

「わかったわ、あのドラマでしょ！吉田栄作の、ウォーってやつ！Ｔシャツじゃなくて白Ｔってヒントが欲しかったとこやけど、まぁ、ええわ。
えーと、なんていうドラマやったっけ、ドラマの名前も出てこないやん。
俺も好きやったわ、あのドラマ。せやからあの人のことやろ、思い出したい人。脚に保険掛けてた。ほれ、脚がキレイだからってなんか１億円の保険がどうちゃらこうちゃらって。」
「それって脚じゃなくて、目じゃなかった？ 脚はまた別の人のような…」
「目やったっけ。名前は出てこーへんけど、変なことだけ詳しいな。」
「だから、頭の中で人はハッキリしてるの！名前が出てこないけど。でも、吉田栄作はすごいわー、よく名前出たね。私も女優さんの名前を出したい。
あと、ドラマの名前も。」

ここまでくると女優さんに失礼なので、正解は「田中美奈子」さんです。
ただただ、私たちの物忘れが酷いのであって、田中美奈子さんは、ちゃんと
有名な女優さんです。

「あっ出た。私、すごいかも！『もう誰も愛さない』だ！やっと出た！」
「女優さんの方は？」
「一番、思い出したいのに、それだけが出てこない…　なんやったっけ？」
「なんとなく俺、漢字５文字やった気がする。伊藤美奈子みたいな感じ？」
「漢字５文字は合ってる気がするけど、そんな名前やったっけ。ちょっと
違う気がするけど・・・・・・・・・・あぁ、思い出した！田中みな実！」
「んッ、田中美奈子じゃなくって？」
「ごめん、またやわ。田中美奈子って言うつもりだったの、本当に。急に
パーンッと出たから、嘘じゃないの。」
「そうね、わかるわかる。本気で『田中みな実！』って、あんなに嬉しそうには無理やもん。でも、やっと正解出たわ！良かったー、すごい出したね！俺はそろそろギブアップして検索しようかと思ってた。」
「えー、私はまだまだ頑張るつもりやったけど。悔しいから。」
「そうなん。すげぇ頑張るつもりやん…　で、今日のテレビで田中美奈子がどうしたん？」
「・・・・・・・えーと、何の話がしたかったんだっけ…」
「それは、俺には出てこないから、一人で頑張って。 気長に待つわぁ…」

妻が本当にしたい話は、まだ始まっていない。
でも、
妻が覚えていたら、始まらなかった会話。
私が覚えていたら、すぐに終わった会話。
どちらも忘れていたので、永遠に終わらなさそうな会話。
意味のない会話だが、時を忘れるほど、楽しくはある。