みず

書きたいことを、書きたいだけ。心の呻き多めです。

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自分の感情が「わかりません」

言葉にできないって悔しいなぁと思う。 元々言葉をいじるのが好きなタイプだったのにね。 でも、以前も言葉にしているつもりで、何も言葉になんてできていなかったのかな。そうかもしれない。 だって、私は自分の感じていることすら、掴めていないのだから。 数ヶ月前から、カウンセリングを受け始めた。 そろそろ、本当に向き合わないと間に合わなくなると思ったからだ。 聞かれるんだ、カウンセリングで。 「あなたはその当時どんな思いでいたの?」 「どう感じていたの?」 「どう思っているの?」

    • とにかく「悪い奴ではなさそう」と思ってもらう:年度始めの心得

      新年度が始まった。 始まってしまった。 毎年毎年、この季節は実に苦手である。 ぎこちない動き、ふわふわと宙に浮いた足取り、落ち着かない目線。 人びとの変化が、私は大の苦手だ。 そうはいっても、1年ごとに否応なく訪れるこの時期に、私が意識していることがある。 ひとつ目は、「悪い奴ではなさそう」と思ってもらうこと。 ふたつ目は、「困った時には助けてくれるかも/助けてあげてもいいかな」と思ってもらうこと。 そのため(だけではないが)、とにかく足を動かして顔を売る。認知してもら

      • 一年前のわたしへの、そしてあなたへの手紙

        スマホの写真を整理しよう、と思った。 忘れないように、色々なことを写真で残したり、スクリーンショットで保存したり、はたまたその写真やスクリーンショットをスクリーンショットする、なんてこともある私は、気づいたときには写真が膨大な量になっているのだ。 写真アプリを開いて、最近のものから遡る形で、一年前までの写真を整理していった。 整理していくはずだった。 重複しているものを削除したり、フォルダ分けしたりしている途中から、どんどん苦しくなっていった。 大学の年間スケジュールの

        • 希望と諦念を積み重ねていく

          何ヶ月ぶりか、本を読むことができた。 やさしい、柔らかめの文章の本。 病前は、活字が大好きだった。好きというよりむしろ、活字に生かされてきたようなものだった。 そんな人間にとって、本を読めないことは、ひどく苦しいものだった。 だから、久しぶりに本を読めて、とても嬉しかった。 翌日、もしかしたらと一縷の望みをかけて、他の本を手に取った。 こちらは、いわゆる学術書や専門書などと呼ばれる類の本である。 読めなかった。 目次にざっと目を通し、「はじめに」を途中まで読んだところ

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        自分の感情が「わかりません」

          感情と感覚を切ってしまえば。

          この一ヶ月、何かと忙しい。 外せない予定(しかも重めの)が複数あって、バタついている。 動けている。 動けるんだ。 そう改めて思う一ヶ月であった。 ただ、それは、「感情と感覚を切っていれば」という条件付きで。 「感情・感覚を切っていれば」、動けるのだ。 メールも爆速で返信できるし、色々なアイデアも浮かんでくる。 感情・感覚を切っていれば。 きっと、今できていないあれやこれやも、感情・感覚を切っていれば、できるのだと思う。 おそらく、本も読めるし論文だって書けるのだ。

          感情と感覚を切ってしまえば。

          いつもの場所(カウンセリングのこと)

          記録を見返していて、30回を超えているのか、と思った。 あの部屋に毎週通い出して、30回。 いつもの椅子、いつもの机、 そして、いつもの相手。 「いつも」のありがたさ。 変わらぬありがたさ。 これが「いつも」になったことの尊さ。 日常のひとコマとして続いていることの尊さ。 「いつも」は時間をかけて、ある瞬間、「当たり前」になってしまう。 当然のことだと、そのありがたみに気づかず、それどころか「いつも」のようにいかないときに、なぜなのと思ってしまう。 傲慢にも、そんなの当

          いつもの場所(カウンセリングのこと)

          非常口はどこ

          逃げたい、休みたい、どこか遠くへ。 疲れてしまった。 何もできてないけれど。 どんどん予定とタスクは増える一方で、 自分の心にはだんだん余裕がなくなっていく。 手帳の余白が埋まるたびに、心の余白も埋まっていく。 全部かなぐり捨てて、どこかへいきたい。 もう全部いらない。 お金も信頼も身体も生命ももういいよ。 充分にそれぞれの役割を全うしたよ。いいでしょうもう。 休む選択肢がない。 みんなあるよって言うけど、じゃあどこにあるの? どこにもないじゃん。 実質無いようなも

          非常口はどこ

          支援されるということ──支援者を目指していた人がクライエントになったときの話

          いつかどこかできちんと言語化して残しておきたかったことを書こうと思う。 今しか書けない、今だから書けることを、文章としてここに残しておく。 私は、「支援者」になることを志して福祉系の大学へ進学し、社会福祉学や心理学などを学び、社会福祉士国家試験に合格し、その後、精神疾患を発症して「クライエント」になった。 今見ている景色は、支援者になることを目指していたときとは、少し、いや、だいぶ異なっている。 クライエントになったからこそ見えた景色というものか。 精神疾患になれて良か

          支援されるということ──支援者を目指していた人がクライエントになったときの話

          伝わらない絶望。──拝啓、主治医へ

          一言で言い表すなら、「まさか」だ。 まさか、精神科医で、知識があって、自分の状況をごまかさず一通り話して、かつそれを紙にまとめて渡しもして、それでも現状が伝わっていないとは。 伝わっていれば言われないであろうはずの言葉を口にした主治医に、絶望した。 動揺して、頭が真っ白になって、その後のカウンセリングでカウンセラーさんに事の次第を伝えた。 「単に取り繕えてしまうだけで、頭は回っていないし、しんどいのに」とこぼした。 カウンセラーさんはそうだね、と肯定した。 「こんなに伝

          伝わらない絶望。──拝啓、主治医へ

          stop

          止められてしまった。 「休みなさい、このままなら入院も選択肢だよ」ってさ。 ドクターストップならぬ、カウンセラーストップ(?)がかかった。 やっちゃったなぁ、という気持ちと、休んでいる暇なんてないんだよというのと、あーあもう全てひっくるめてどうでもいいや。 止まっていられないんだよ。とりあえず年度末までは走り続けるしかないの。やることたくさんあるの。 無理しなくていいって、じゃあ生きていることが無理なので無理ですね。 無理するしかないのに、頑張るしかないのに、頑張らな

          壊れた車のアクセル踏んで

          読むこと、書くことで生き延びてきたわたしが、読めず、書けなくなった。 大量の文字の羅列は、救いではなく苦しみとなった。 でも、メールやLINEなど、読むしかないし書くしかないときもある。そういうときは、どうにか、辛うじて読んだり書いたりしている。 こんな現状を、お風呂でお湯に浸かりながら、まるで壊れた車のアクセルを踏んでいるようだと思った。 壊れていても、どうしても動かなくてはいけない現実と、それでも動けない現実と。 その狭間で、無理矢理頭を動かしている。 そうすると、傍

          壊れた車のアクセル踏んで

          類稀なる甘えと愛。

          静かに涙を流していた。 声は出ない。 ただ、涙が頬を絶え間なく伝う。 いつものことだ。 ひとつ、いつもと違うのは、背中に手のひらのぬくもりがあることだった。 その手は優しく背中を撫でた。 大好きな人に会った。 その人との関係性を説明するとしたら、たぶんいろいろな言葉があるだろうが、一番手っ取り早いのは、私が初めて希死念慮を打ち明けた人であり、支援者(医師、カウンセラー)以外で唯一それを知っている人、ということだろう。 会うたび、毎回甘えが爆発する。 溢れ出る。 嫌なの

          類稀なる甘えと愛。

          もう、ずっと助けてもらえない

          「子どもは助けられるべき」 「子どもは守られるべき」 よく耳にする。 確かにそうだ。 子どもは(おとなに)助けられるべきだし、守られるべき。 異論はない。 でも、この言葉を耳にするたびに、目にするたびに、胸がぎゅっと苦しくなる。 私はもう、これから先もずっと、助けてもらえない、守ってもらえない、って。 私は「おとな」と呼ばれる年齢になってしまったから。 もう「子ども」じゃないから。 無条件に助けてもらう権利も、守ってもらう権利も、もうない。 頭では分かっている。そうい

          もう、ずっと助けてもらえない

          必要かつ十分なことば(カウンセリングのこと)

          先日のカウンセリング、終わり際にカウンセラーさんがひとこと、こう言った。 「昨日は大変だったね」 カウンセリングの前日に、自分を揺るがすような出来事があり、カウンセリングではその話を主にしていた。 と言っても、出来事の具体的な内容はついぞ話せず、その出来事で自分がどのように感じたのかを少しだけ話したのみであった。 そして、そろそろ終了時間というところでカウンセラーさんが発したのが冒頭のひとことである。 その言葉はストンと私の中に落ちて、この数十分はこの言葉の前置きだった

          必要かつ十分なことば(カウンセリングのこと)

          「あなたが大事」と言われても(カウンセリングのこと)

          私には、ずっと希死念慮がある。 先日、カウンセリングで初めてその事実を口にした。 きっとこれをどこかで話さないと、根本的な部分が伝わらないだろうなと思っていた。 慢性的に、日常的に希死念慮を抱えている人と、そうではない人は、生きている前提が違うような気がする。 だから、この前提を共有しないと、どことなく話が噛み合わない感覚が解消されないだろうと思っていた。 いつか話さなきゃと思いつつ、タイミングを図りかねていたが、このあいだなんとなく今なのかなぁと思ったので、話すに至った

          「あなたが大事」と言われても(カウンセリングのこと)

          こころの気道を確保する

          なんとなく、なんとなくだけど、私は自分の中にある薄い当事者性に揺らがされ続けるか、あるいは当事者性を一切切り落として生きていくか、どちらかしかできない気がしている。 たぶん、確実に、今後の生活に当事者性をうまい具合に活かすことはできないように思う。 当事者とは言えないけれど、でも非当事者とも言いきれない、そんな薄っぺらい当事者性は、人生の足かせになれども糧にはならないんだろうなって、ふと唐突に気づいてしまった。 当事者が持ち得る、同じような状況に置かれている人への想像力は私

          こころの気道を確保する