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10年


※震災関連の話を書きますので、苦手な方はそっとページから離れてやってください。といっても私は当時、ただただ画面超しに眺めることしかできなかったのだけど。

2011.03.11

この日、私は高校2年生だった。
摂食障害真っ只中で2度の入院を経て、やっと学校生活に戻れた頃だった。とはいえ身長165センチで体重35kgという骸骨のような体で、まだ拒食症ではなかった高1の入学時にすでに膝上15センチに切った制服のスカートを着ていると周りの人の腕の太さの脚が丸見え、みんな2度見したあとひそひそと話しながら去ってく。笑うと骨が出っ張るのが目立ち笑うこともやめた。

洋服を脱げば前からだけでなく背中からも肋骨が見え、お尻に肉もないからずっと座ってると骨が椅子に当たり床擦れができそうになる。
よく母には
ハリーポッターに出てくるドビーみたい。
と言われた。 

カウンセラーやドクターには制限型の非嘔吐の拒食症、過食に走らず、全く食べない上に過活動の激しい、体重が減る一方の摂食障害の中でも一番死に至る可能性の高い危険なチャレンジャータイプと言われていたらしい。

そんな過活動の症状と電車に乗ると人に指されるのも嫌で毎日高校から家の12㎞の通学路を歩いた。
通学時間、電車にしたら1時間かからない距離を2時間半かけた。

友達と会話をするでもなく、話しかけてくれる子もいたけど今思えば自分から孤立していたそんな時期だった。人の優しさに触れるのが怖かった。
ごはんも食べられないから昼休みはみんな仲良くごはん食べてる中、その輪にも入れずよく保健室にいた。

2011.3.11、この日は学期末だったのもあって授業は午前で終わり午後はたまたま月1回のスクールカウンセラーが来る日でカウンセラーの人と放課後、話していた。
その頃は今の状況から抜け出したいという気持ちと変化などの恐怖との葛藤中だった。不安を人に話すといくらか勇気を出してみようと思えるようになっていたその頃の私はその日、カウンセラーの人に「今日は学校から大船駅までは歩くけど大船からは電車に乗ってみる」と宣言した。
決心できただけでも私にとって大きな進歩の日だった。

神奈川県の大船駅、それが私の高校の最寄りの駅だった。
大船駅にの近くには大船観音という観音様がいる。
ちょうど大船観音の下についたとき、東日本大震災が起きた。地震とは思えない今まで感じたことのない揺れ方だった。私はめまいかと思ったが、周りの人の「地震だ」と言う言葉にめまいじゃないことを知った。今思えば観音様が落ちてくるんじゃないかと思うほど、結構な揺れだったが、電車は当然に動いてるものだと思い駅に向かった。

駅につくとそこは電気が全くついておらず、駅ビルは真っ暗で「皆さん出てください」と警備員さんたちが叫んでいた。

これはただ事じゃないとやっと気がついた。

駅の液晶画面は津波の映像が流れていた。映画のワンシーンを見ているようで、改札の前にいるひとたちはみんな「これはどこ?」「日本なの?」など混乱状態だった。見知らぬ周りの人たちとただただその映像を眺めるしかできなかった。

それでも当時の私はこんな状況でも自分のことしか考えられなかった。 

毎日ルーチンの中で生きてた私は一気にいつもと違う状況にたたされ不安で仕方なかった。
唯一の救いは地震により電車が止まりいつものルーチン通り家まで歩けたということ。
とにかくいつものルール通り18:00までには家につかなきゃその思いで必死に歩いた。
その日は母と弟も大船にいた。今だったら私は母と弟のもとにいったかもしれない。けれど自分のルーチンを崩さないことが第一だった私は母と弟と電話が通じないのを不安に思いながらも津波警報の鳴るなか海に近い家まで必死に歩いた。

いつもは歩いてる人なんてほとんどいないのに、ヒールを履いたお姉さんや、スーツを着たサラリーマン、いろんな人が歩いていて一人じゃないと安心したことを覚えている。

津波の警報を聞きながらも、普通に開いているコンビニ。

海に近い我が家に向かっている私。

ほんとにいいのだろうか。

わからないままにひたすらに自分の症状の日々のルーチンのルールを守るために家に向かった。

その日の夜はずっと津波警報かなっていたけれど避難する人は見られなかった。海から近い我が家もそのまま津波警報の音を聞きつつ日常を過ごしていた。

2021.03.11

この10年で私の体重は約10kg増え、孤立していたのに人のつながりを求めるようになった。そしてなにより笑うようになった。 

皮肉なことに、そのつながりは東日本大震災がきっかけで繋がれたご縁が多い。

私の前職の社長は東日本大震災の頃、大きなリビリテーション病院で理学療法士として働いていたが震災が起きてすぐ病院で働くのを辞め、現地でボランティア活動をしていた。
社長の母親は日本では大きなボランティア団体の代表、その息子だったのもあり現地で各ボランティア団体や物資と支援を必要としているひとを繋げるコーディネーターのような役割をしていた。

そんな中で社長は「人の欲求は無限大でいくら必要な人やモノをつないでも、課題解決はせず、つないでもつないでも終わらない。エンドレンス」「外から支援するほど、個々の横のつながりが薄くなり、住民が依存的にすらなってしまう」感覚になることがあったそうだ。終わることのない「支援」に身体・精神とも極限まで疲弊した社長の結論は、
「災害時だけでなく、普段から強固なネットワークを築かなければ、いざというときの助け合いは難しい。」ということだった。

私の前職は団地の一室にあり小規模多機能居宅介護施設という施設だけれど介護をしたくて社長はこの会社を作ったわけではない。
小規模多機能をツールとしてその地域の人がそこそこhappyに生きられることを一緒にしていきたいと思っている。

社長は地震がなかったらもしかしたらまだ病院で働いていたかもしれないし今のような仕事はしていなかったかもしれない。

私は社長に出会う前後で社長の仲間の色んな大人に出会った。それも東日本大震災の影響を受けてできた会だったりする。

そのつながりは摂食障害からの回復にとても重要だった。
私の周りの大人はみんな自分の夢をわくわく語ったり、自分の人生の失敗談や楽しかった話をしてくれたり色んな経験をしてる人がたくさんいて今までの私の価値観が壊された。
摂食障害の私もそのまま認めてくれた。その輪の中にいるとなんだか少し悩んでることがどうでもいいと思えるようになった。そして自然とその人たちといたいからと自分のルーチンを手放すようになっていた。症状よりわくわくが勝った。

きっと震災がなかったら私は今のような仲間には会えなかったし摂食障害の回復にも時間がかかっていたと思う。

震災はとても多くの人に傷を与えたし今も苦しんでいる人がいる。
私にははかり知りえない恐怖やトラウマを現地の人は今も抱えているかもしれない。
そういう方たちに対しては失礼なのかもしれないけれど、きっと多くの人が震災を機に色々なことを考え、行動するきっかけにもなったと思う。

人生は紙一重の世界だと思う。
明日は自分が窮地にたたされているかもしれない。
でもそのしんどさは絶対ずっとは続くわけではない。
そんな風にも思う。

あれから10年。

1年前と比べると私はそんなに変わっていない。
でも10年前と比べると大分変わった。 

震災で大きな傷をおった人たちも
少しずつしんどさが溶けていったらと願う
そんな思いと共に。

14:46合掌。




読んでいただいて、ありがとうございます。 自分のために書いた文章が 誰かの心にも何か残ったら嬉しいです。