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生き抜く背中

ゆるやかなウエーブの肩まで届きそうな髪、きりっとした眉にくっきりとした二重の瞳、やや青白い肌、日本人にしては彫りの深い顔立ち、背は高く肩幅も広いが、ニューヨークでは華奢なほうに見える体つきに、彼はクラシカルな黒いダブルのスーツをまとい、白い手袋までつけていた。

「どうぞお乗りください」
ホテルの前に並ぶ数台のリムジンから、自分が社長達とともに乗り込む車両はどれかと探っていた砂実へ、彼はそう声をかけた。海外出張の度にあらかじめドライバーを手配していたが、いつもは割とカジュアルで屈強な白人のドライバーであることが多かったため、スーツを着込み執事のような物腰の、かつ日本人であることに驚いた。

日本語で行程をやりとりできるのは非常に助かる、と安堵した。砂実は同僚の真央とともに、社長の如月や役員が行う海外投資家とのミーティングの合間の、現地の話題の施設やスポットの視察や食事のコーディネートを担当している。社長達が投資家のアポイント回りをしている間、砂実と真央は現地視察の下見を行い、アポイントが終わった後に優先して彼らを案内するべき場所を決め、その後夕食場所へ案内し一日を締める。アポイントの時間の変動や、下見視察の状況、そして交通状況や移動距離を踏まえながら、複数のパターンを描き行程をスムーズに運ぶには、現地でのドライバーとの連携は非常に重要だ。

砂実も真央も元々こうした業務の経験はなかったが、2人とも比較的細かくシミュレーションを働かせ準備をする性質で、できる限りの事前準備を行い、いざというときの判断軸のすり合わせをしてきたこともあり、これまでもドライバーを含めたチームプレイのおかげで特に大事には至らなかった。それは如月達には当然のこととして映っていたが、砂実たちにとっては毎回水面下で足を思い切りバタつかせ続けた結果に生み出したスムーズさであり、やり遂げた後には2人だけの疲労感と達成感があった。そうしたやり方に慣れてはきたものの、やはり当日の行程を最も左右するドライバーとの連携を、英語ではなく日本語によって機微に取れるのは嬉しかった。

男は草鹿と名乗った。社長の如月も、珍しそうにほぅとつぶやいて挨拶をした。全員が乗り込んだあと、車は静かに滑るように走り出した。

如月は上品な男である。年齢は50代半ばにさしかかり頭にも白いものが混じり始めてはいるが、体つきはすらりと締まっており、感受性が高く知的好奇心に富んでおり、深く思慮し丁寧に言葉を紡ぎ出す。相手が若者であるほど謙虚な態度となり、いち社員にすぎない砂実たちにも丁重な話し方で接する。ただ、ややせっかちな面があり、時たまではあるが、ことが思うようにいかないと瞬間的に怒り出し手がつけられなくなることがあった。上層部になるほど、そうした態度を隠さなくなるようであるが、それでも他の役員のように偉ぶったり、海外ゴルフに興じるための休みがほしいだの接待を期待するようなこともなく、むしろ現地でしか見られないリアルな潮流に少しでも触れたいという意志があり、砂実たちにとっても如月のための行程はコーディネートしがいのある仕事であった。

草鹿はその丁寧な物腰から裏切ることなく、砂実たちの良きサポーターとなった。朝一番の打ち合わせでは、必要なことを的確に確認し、余計なことは言わず、乗車時は如月をはじめとした役員の質問に快く答えNYの暮らしを分かりやすく解説した。移動時間はふだんよりも和やかな空気が流れた。夕食への同席は丁重に断り、夜中に全員をホテルに送り届け、翌日の行程を確認してにこやかに去っていった。そうして1日目が過ぎた。

2日目。この日はややタイトなスケジュールだった。午前のアポイントが2つ、その後のランチのレストランが、予約時間に遅れたらキャンセルするというポリシーの厳しいところであった。投資家周りの行程は金融機関の営業担当が行なっており、砂実たちがリストアップしたレストランも彼が予約していたが、時間には気をつけるようにと連絡が来ていた。

想定の範囲内ではあったものの、ミーティング時間がやや伸びたため、草鹿にできる限りのスピードでレストランに向かってもらった。砂実達を加えて人数は7人だった。如月は食にもこだわりがあり、単に高価格なところは好まず現地の人で賑わっているところを所望した。マンハッタン内では特にランチタイムは慌ただしく、7人でゆっくり落ち着いて話せ、地元の人にも人気で雰囲気の良い、かつ移動行程の無理のない範囲での適切なレストランを見つけるのはなかなか骨の折れる作業であったが、ここはようやくそれらの条件を満たし予約できた場所だった。

そこは気の利いた大型のセレクトショップが運営するモダンなレストランだった。リムジンから降り慌ただしくショップの通路を抜け、約5分遅れて到着した。事前の電話はつながらなかった。半地下の階段をすすむと、一面暖かなオフホワイトに塗られた壁と、いたるところに活けられた植物と花に溢れた空間が広がった。様々な大きさの真っ白な木のテーブルには人が埋め尽くされ、隙間をウェイター達が頬を赤くしながらきびきびと給仕をしていた。

砂実は客とウェイターの波をかき分け、レセプションの小さなテーブルにようやく辿り着き、白いTシャツから太い腕の大きな刺青をのぞかせた40がらみの髭の男性に5分遅れたことを詫びながら予約した名前を言った。男は微笑みながら予約のリストを繰っていたが、「ご予約は入っていませんね、マダム」と言った。砂実の血の気が引きつつも、やはりと思った。店内をかき分けながら、それらしい空席をどこにも見つけ出すことができず不安が募っていた。遅れたから次の客を入れたのかと聞くと、そうではなく元から予約は入っていないと言う。7人席で次に空く時間を尋ねると、それは保証できない、なにせこんな状況なので、とウェイティングスペースでドリンクを飲みながら席が空くのを待っている鈴なりの客達を手で示した。満席で、行列。とても望みはなかった。男はもう対応は終わったとばかりに、砂実の後ろに並んだ客にとびきりの笑顔で声をかけ、彼女にここから外れろという態度を示した。笑顔によって切り捨てられた悔しさを感じる一拍前に、如月達が追いつき合流した。一旦状況を説明すると、如月は一息つき、「状況は分かった、どうするかは任せます」と抑えつつも苛立ちを隠せない様子で言った。砂実の首筋にじとりと嫌な汗が流れた。

そこへ、車を停め様子を確認しに来た草鹿が現れた。状況を把握すると、如月にゆったりと「レアスニーカーのショップ、ご覧になりますか?」と微笑みかけた。移動中、この近隣にレアなスニーカーをひたすら集めた有名店があり、世界中からファンが買いにやってくるという草鹿の話に、如月は惹きつけられていた。「うん、行きたい」と如月が途端に少年のような素直な笑顔になり頷いた。

レストランから徒歩10分程度とのことだったので、車には乗らずに草鹿を先頭に一同は歩き出した。みな如月の機嫌が直ったことで和やかさを取り戻し談笑しながら歩いていたが、砂実と真央は焦っていた。近隣のレストランを早急に見つけなくてはいけないが、この混雑するエリアで如月が気に入る好条件の店が見つかるだろうか。7人席は諦めたとしても、最低5人席は確保しなくてはいけない。ランチタイムはすでに始まっており、今からその数の空席を確保するのは難しいように思えた。かといって、如月達をファストフード店に押し込むことはしたくなかった。

砂実達は先頭の草鹿に追いつき、事情を説明してスニーカーショップへの案内は真央が引き継ぎ、草鹿と砂実で他のレストランを手配するのを手伝ってくれるよう掛け合った。草鹿はひょいと眉を上げ承諾し、真央に道順を簡単に説明して列から離れた。

「あのレストランに、予約は入れていたんですね?」
「直接はXX金融の方が入れ、私たちは取れたという報告をもらっていました。だから直接の確認はできていなかったんです」
「この辺りで探すより、もう一度掛け合ってみましょう」
2人は早足に来た道を戻った。

レセプションには3組、男に席の状況を確認したり予約の旨を告げるためのグループが並んでいた。砂実は軽く息を切らして草鹿と並んだ。ずいぶん背が高い、と改めて思った。彼は息一つ乱れていなかった。じりじりした気持ちで待つうちに、ようやく順番がまわってきた。男はまず砂実におやというように目を留め、それから正面の草鹿を見つめた。

「7人が座れる席はありますか?」と草鹿はにこやかに聞いた。
男は再度砂実にちらりと目をやり、「いえ、席はありません」ときっぱりと言った。
「こちらの方は日本から来られましたが、日本を出る前から予約を取っていたはずです」
「そういった予約は入ってませんね」
「ふむ、そうですか・・・こちらの方は、彼女の企業のトップといらしており、とても大事なランチなのです」
「この混み具合ではいかんともしがたい。ほら、こんなに席は埋まっているし、お待ちのお客様もご覧の通りなんです」
「なるほど、たしかに混んでいますね。」
草鹿は一度言葉を切り、頷いた。
「でも、お客は入れ替わるでしょう?何時のタイミングだったら席は空くんですか?あなたなら、分かるのでしょう?」

言葉と言葉の間を空けてゆったりと話す草鹿の様子は、物腰柔らかではあるものの、混雑していくばくか殺気立った店内ではむしろ不気味に映った。草鹿の後ろの列は長くなっていく。男は、明確に示している自分の苛立ちを一切受け止めず平然と話を進める草鹿に、一層苛立ちつつも席次のリストを取り出した。

「1時間後、5人の席なら作れると思う」
「5人ではありません、我々に必要なのは7人席です」
「4人のグループが1時間以内に店を出るとは思うんだ。そこになんとか1つ椅子を足して、ギュウギュウにはなるが5人は座ることはできる」
草鹿は男から目をそらさぬまま、ふう、とため息をついた。
「もう一度言います、我々は7人のグループです。あなたは7人の席を作る必要がある」

男はあきれたと言わんばかりに天を仰いで肩をすくめ、怒りを露出した。砂実は思わず身をすくめた。「この混み具合では何も保証はできない。7人が座れる席は元からほとんどない。この店で俺は長くやっているが、俺たちは客を積極的に追い出したりしないし、そしてこの俺の経験則から今から1時間後に7人の席が空くことはない」と断言した。

砂実はもういたたまれなかった。背筋にじとりと嫌な汗が伝っていった。5人席が確保できるならそれで構わなかった。砂実と真央が外れればいいだけのだから。狭い席になってしまうこと、2人の不手際が原因とはいえ、基本的には同行者を除外などしたくない如月に逆に気を使わせてしまうことなどが浮かんだが、とりあえず彼らのランチが確保でき午後のアポイントに間に合うのであればもう充分だった。だからもう大丈夫です、と草鹿の背中に声をかけようとした時、草鹿はおもむろにレセプション台の両端をがしりと掴んだ。

「このランチ会食はとても重要なのです。」
草鹿は肩をいからせ男の方へ身を乗り出し、まっすぐに視線をぶつけた。
「彼女達は7人の席を必要としています。」
男は一瞬たじろぎ、信じられないという顔をした。目が揺れ、口があわあわと動いた。2人のやりとりの間に長くなったうしろの行列客がいるのに、一体こいつはなんなのだ、と苛立ちが沸点にたどり着きつつあるのが見て取れた。砂実は、男が今にも草鹿に掴みかかるのではないかと、さらに身をすくめた。思わず両手を握りしめた。
7人、です」草鹿は低い声でもうひと睨みした。

「いかがなさいましたか?」
ふわりと、真っ赤な仕立ての良いスーツを来た金髪の女性が現れた。砂実の目にも、彼女がこの店の責任者であることが一瞬で見て取れた。

「7人の席でのランチを彼にお願いしたんです」とレセプション台から手を離し、草鹿はまたにこやかに答えた。隣では男が憤然とした表情で草鹿を睨みつけている。頰と耳まで赤く染めあがっている。「彼女達の、非常に大事なランチの会食がありまして」
「まぁ、そうでしたか。ではお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
草鹿が女性の方へと列を離れ、男はようやく次に待っていた客の相手に移ることができた。乱れた息を整えている様子が目の端に映った。砂実も、無意識のうちに止めていた息を吐き出した。


「さて、どうなりますかね」店を出て再びスニーカーショップに向かう道で、草鹿は伸びをしながらいたずらっぽく言った。先ほどの背中の猛々しさも、粘着質な攻撃態勢ももう微塵も見当たらなかった。さらに漏れ出た言葉が「これでもう大丈夫ですよ」といった確信めいたものではなく、まだ結果の不確実さを許容した物言いなのも砂実には意外だった。鬼気迫る背中の印象と、その後の柔和さを取り戻すまでのあまりの素早さに気圧され、砂実は単純な礼の言葉を繰り返すことしかできなかった。

自分の要求を通すために、一歩も引かないこと。

柔らかな態度で中性的にすら感じられた草鹿が、この地でどう生き抜いてきたかの激しさを垣間見たようだった。体格ではレセプションの男が上回っていた。みっちりと筋肉が詰まり厚い胸板だったし、英語も彼のほうが完璧だった。大きな刺青が彫られていた。草鹿はネイティブではない発音ながら、ゆっくりと間を空けた丁寧な調子を崩さず、しかし相手が要求を飲むまでは相手の事情など一切お構い無しに迫っていく、せりあがる壁のような交渉だった。男の心が一瞬縮み上がったのが、砂実にも見えた。

砂実は草鹿の放った一語一語、一挙一投足を思い出しながら、自分がはじめに男に向かった時、男の言葉に対してですらなく、男の次の客に向ける笑顔によって腰が引け、交渉の土台にも乗ろうとしなかったことを噛み締めていた。引き下がろう、という意思を持つ前に、すでに引き下がっていたことを、もっと言うならば、こんな自分なのだから相手に引き下げられるのは当然だ、と自動的に思った自分が恥ずかしかった。


草鹿に案内されたどり着いたその店には、色とりどりのスニーカー達が、広大なスペースに博物館のように磨き上げられたガラスケースに美しく収められていた。壁ぎわにもずらりと見上げるほどに並べられ、試着スペースもレジも行列ができていた。わくわくと胸をときめかせながらゆったりと歩む如月のそばには真央がいた。草鹿が交渉してくれたおかげで1時間後に席を作ってもらえること、ただし5名席の可能性もあるためその場合はアポのない砂実と真央は別で摂ることを手早く伝え、砂実も視察に加わった。「そう」とすっかり機嫌の戻った如月は微笑んで言った。草鹿がどう話をつけてくれたのか、細かく説明することはためらわれた。一歩も引かず、でも尽くしたあとは天に任せる緩やかさを持つ草鹿のことを。

スニーカーショップは思いのほか見応えがあり、商品だけではなく顧客やオペレーション、場のあり方などをめいめいが観察するうちに程よく時間が過ぎ、改めてレストランへと徒歩で戻った。草鹿は中に入らず、砂実がレセプションの男のところへ向かい声をかけた。ウェイティングスペースでは相変わらず席が空くのを待つ客達がひしめいていた。男は、ああ君かという表情をして、すぐにスタッフに席の案内を任せた。お前の顔は見たくない、と言われたように感じられ、砂実はつい何人席を用意したのかを聞くタイミングを逃した。緊張しながら奥のスペースへと案内する係についていくにつれ、また鼓動が早くなった。

「こちらでどうぞ」
8人がけの白い大きなテーブルに、ゆったりと7人分のカトラリーがセットされていた。中央にはみずみずしいグリーンと艶やかな花がたっぷりと活けられており、昼間と感じさせない落ち着いた仄暗い照明が灯されていた。相変わらず他の席は満席で、ざわめきに満ちていた。

砂実は思わず目を閉じて一息ついた。こういうとき、クリスチャンならアーメンと呟くのだろうか、などと思っている間に一行は真央の采配で何事もなかったように席についた。明るい瞳のウェイターが、にこやかに飲み物の注文をとりに来た。

「無事に、全員でゆっくりと座って食事をすることができました」
車に戻って運転席の草鹿に礼を伝えると、「よかったですね」と世間話のついでのような微笑みだけが返ってきた。やはりあの背中に似つかわしくない、いつもの優雅な笑みだった。

車はまた滑らかに走り出した。