見出し画像

【小説】 六時十度三百九m/s その2

 式典当日、雄太は銀行の貸金庫に至るまで町内を道を変えつつ三周ほどした。もちろんこれは尾行対策である。
 銀行の貸し金庫から当選券を取り出し、何事もなかったかのように駅に向かう。
 駅についてからもしきりに周りを気にし続け挙動不審に見えるその姿は、 逆に当選券を持っていますというアピールをわざわざしているようにしか見えない。しかしこれでいいのだ。
 重度のエレベーターマニアである雄太からして、この当選券は命そのものであった。当選券が入っていると思われるリュックサックを体の前に抱きしめるようにして持つ。このリュックの底には何重にもラップと新聞紙で包んだクリアファイルがある。そう、実はこの中に当選券は入っていない。読者の皆さんが思ったとおり靴底に半分に折った当選券を入れているため、リュックサックもクリアファイルも囮なのだ。万一リュックが取られたら、その後警戒される可能性が減るのだ。それぐらいしなければ当選券は取られる。そんな予感がある。だからあえて当選券を持っているアピールまでしている。万全。
 そこまでせんでもと思うが、駅の混雑の中でリュックサックは見事にひったくられた。
「あっ、誰か、ひったくりだあ!」
 迫真の演技である。この時のために何度もひったくられた時の演技を練習した。ちょっと転びながら追いかけようとしてやっぱり転ぶところまで、練習どおりやった。
 リュックサックを奪った男は人混みをうまくすり抜けて慌ただしく駆け抜けていき、そしてゴミ箱にクリアファイルだけ抜きとられリュックサックが捨てられようとするところまで雄太は見えた。残念ながら泥棒男は、周囲の呼びかけと協力により、その後すぐ取り押さえられていた。その男は重度のエレベーターマニアの一人でそいつは当選しなかったのである。しかし僕が乗れないのはおかしい。初めから当選していたように思う等と発言し大変暴れるので、その後現れた鉄道警察によって三日は家に帰れなかっただろうなあ。そう思う。

 鉄道警察がリュックサックの中身から持ち主を特定した時には、雄太はもう記念式典の会場内に入っていた。
 そんな泥棒騒ぎなどどうでもいい。混雑する会場までの道のりで予定よりも到着時間はとても遅れた。
 天を見上げれば頂上が見えないタワーがかすんで見える。
 タワーを見上げるために天井が開いているドーム会場に雄太はいる。仮設ステージに著名人や政治家などが集まり、その周りをここぞとばかりにテレビカメラやインタビュアーが待ち構えている。記念式典がもうすぐ始まる。記念式典が始まって一時間もすれば、とうとうエレベーターに乗れる。




つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?