公開予定のなかった書きかけの記事。

これからは個人の時代、というけれどそれについては大いに同意だしわたしもわたし個人として力をつけていきたいと思っているが、単純に「個人」と言ってもそれは「個人」とは対極かつ表裏一体とも言える「社会」の背景がある。はず。

そして最近得た知見について、ソースはいくつかあるので、それらを載せながら自分なりの噛み砕いていこうと思う。

現在の(日本)社会背景

これが日本社会だけなのか、そうではないのかはまだまだ狭い視野しか持つことのできないわたしには断言しかねるが、少なくとも現住しているフィリピンではない社会背景がある。

それは必要最低限に機能的であることの飽和である。

「日本、痒いところ大体手が届く説」とでも言えるだろうか…

日本という国はテクノロジーの進歩やら政治やらなんやら賛否両論はあるけれど、非常に便利な国であることに間違いはない。

そして利便性や機能性は追求され尽くし、競争をし果て、もはやその領域にこれ以上のアップデートの需要が少ないと言える。

簡単に言えば、誰もが家で買い物ができる、洗濯機に着た服突っ込んでおけば乾燥して出てくる、話しかけるだけで部屋の電気は消せる、面倒なことと言えば洗濯物を畳むこととお風呂に入ることと確定申告…なんていうわたしからの偏見を生むレベルに、日本人の生活はすでに最高レベルまで利便的、機能的になっていると思う。

そして、この分野においてはこれ以上の競争が意味を為さない。

なぜなら、同じ機能を持つ洗濯機なら日立、東芝、シャープ、パナソニック、どれでもいいからだ。

座ったまま部屋の電気を消したいならば「OK, Google.」でも「Hey, Siri.」でも「アレクサ」でも、なんでもいいからだ。それはそうとSiriは部屋の電気は消してくれないんだっけ。予選落ちだな、、、

では、全ての機能が発達しきってしまったら、我々人間は購買の際に何が選択基準となるのだろうか?

陳腐化しない戦い方 - ブランド力

機能や利便性での選択の時代は終わった、

価格競争ももちろん既存だろうが(現にわたしは何かを購入する際は1円たりとも基準として譲らない、価格競争万歳)

それ以上に人を動かすものが

好き

という気持ちである。

さすが人間、感情で動く生き物だー。

購買の際に存在する「好き」、これはすなわちその商品や企業、社員への愛であり、これこそがブランド力を構成する。

その商品や企業が「好き」になった時、あなたはその企業のファンとなり、購買の基準に大きく影響するのである。

とても簡単なことを小難しく言ってみたが、すなわち

あなたがスポーツ用のシューズを買う際、ナイキ、アディダス、ミズノ、はたまたアシックス、どの靴も同じような価格、機能だった場合、好きなブランドのものを手に取るだろう、つまりはそういうことだ。

ちょっとブランドという意味まで深掘りすると

例えばコスメを買お〜って思った女の子、ポイントも貯まらない名の知れない薬局で買うより、アットコスメストアに行きたいはずだ。もしくはアインズトルペ、ちなみにわたしはショップインもなかなか好きだ。

アットコスメストアが完全に「ブランド」と言っていいものなのかわたしは判断しかねるが、ここで重要なことは、アットコスメストア「だからこそ」の意味があることだ。少し押し付けがましいがそれが「好き」に繋がりうる。

「だからこそ」の意味付け

そもそも、ブランドとはどういう意味なのだろうか。

ブランド 【brand】
①自己の商品を他の商品と区別するために、自己の商品に使用する名称や標章。銘柄。商標。
②特に優れた品質をもつとして知られている商品の名称や標章。
 ー 三省堂 大辞林 第三版より
ブランド製品の構成要素のうち、最も重要なものの1つで、その製品や企業に関するあらゆる印象や体験の蓄積を意味する。アメリカ・マーケティング協会によると、「個別の売り手もしくは売り手集団の財やサービスを識別させ、競合他社の財やサービスと区別するための名称、言葉、記号、シンボル、デザイン、あるいはそれらを組み合わせたもののこと」。
 ー MBA経営辞書より

やはり経営辞書の方がしっくりくる…

この場合、ブランドという言葉は「競合他社と差別化するための自社やその製品の印象、体験を意味する」というのが最も分かりやすいかと思う。

そう、差別化、意味付けという言葉がキーワードな(気がする)のだ…!

そしてこれは既に大きなブランド、例えばシャネルはグッチ、アディダスやナイキよりももっと小さな規模で考えた方が分かりやすく今のわたしたちに応用が効くはずだ。

例えば上記の例でいうと

「ポイントがつかない小さな薬局」より「ショップイン」を選ぶ理由は、他にもたくさんのコスメが見れる、ポイントが貯まる、ショップの雰囲気が可愛い、などなどそこに付加価値があるからだ。

間違えないで欲しいことは、この購買行動の本質目的は

あるコスメ(すでに決まっている)を買うことなのである

その機能面においては前者も後者も購買の場所としては何ら優劣はなく(基本的にコスメはどこも同じ値段で販売されているので)、そこに+アルファの価値を提供できるかどうかというのがブランディングの本質である(のだと思う)(なにがしの女子大生の発言なので断言は控えたい)

そう、なにがしながらに声を大にして言いたい。

ブランディングという価値づけ・価値づくりこそが今の時代において差別化を図る術であると!

そして奇遇だが最近こんなことを考えていた時、通ずるのではないかと思うお話をカンブリア宮殿というテレビ番組にて特集が組まれたというすかいらーくグループの経営者の横川さんが話していらっしゃった。(ツイッター上に上がっていた)(わたくしセブにいるのでリアタイでは見れておりませんので、情報一部抜粋にならざるを得ず、あしからず…🙏)

陳腐化という言葉は最近よく耳にする気がする

時代の流れや人々の趣向も爆速で変化し、新しいものが生み出されは古いものは淘汰され。機能性だけで戦っていたものは同じ機能を持ち、さらに+アルファで愛される何かに追い抜かされ、使われなくなり、忘れられていく。

陳腐化、価値が無くなってしまう。


今、例えとして挙げさせていただいたのは様々な企業様であり、比較的大規模な話であるがこれをもっと個人の話まで落とし込むことで近年騒がれる「個人の時代」とやらにつながると思ったのだ。

個人ブランディングが求められる今

社会において確かにまだまだ必要最低限、というところで消費者を支えてる企業や商品が多くあることは否めないは同等にブランディングということの重要性も上記でご理解いただけたと思う。

では、なぜ今それが「個人」という単位まで落とし込まれているのか?

これには諸説というか決まった答えは正直ないので至極私的な意見になることを了承していただいた上で読み進めていただきたい。恐れ入ります。

まず一つ目は、機械化・自動化・AI化と叫ばれる流れによるものである。

人間が行う仕事の約半分が機械に奪われる今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという結論に至ったのです

英オックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授が2014年に発表した論文の一部だ。

知見の浅さを知らしめてしまって恥ずかしい限りで、実際この論文を読了したわけでも関連書籍を読み漁ったわけでもないが、わたしが思うに、時代の波に淘汰され陳腐化していくものは最低限度の商品だけでは無く、我々が行う経済活動、すなわり労働でもあるのではないか。(購買は言わずもがな)

必要最低限度の機能的労働はAIにとって代わられるのではないか。

AIの話は少々ぶっ飛びすぎてるかもしれないが、相手がAIでなく人間の可能性も大いにある。

日本人的偏見の中で発展途上国というレッテルを貼った国籍を持つ人々が世界の共通言語である英語を使いこなして仕事をバシバシと奪っていくかもしれない。(ここには若干の私的表現が入っているが、要するに思いもかけない優秀な人材が知らない間に湧き上がっていて、気がついた時には仕事を全部取られているかもしれないし、これは全くの現実味を帯びないとも言えないだろう)

こんなリスクが伴う時代だからこそ「何者」かになるための個人ブランディングが重視されるのではないか。

+アルファの価値、それは根本的にそれぞれ(各個人)に依拠したものであるがゆえにあなた以外の誰にも真似はできないし、重宝される差別化される価値であるはずだ。

書きながら忘れかけていたけど個人ブランディングを推す社会的風潮の二つ目の理由は、単純に、+アルファの価値提供をしようとするブランド・企業が増えているからではないだろうか。

これもごく推測に過ぎないが、面白いことをやっている会社は面白いことをできる人と働きたいだろうし、+アルファの価値を創り出そうとする会社は+アルファの価値を作ってきた人を雇いたいだろう。

そーれはそうと価値づくり、差別化なんて簡単なものでもない、とわたしは思うし現にわたしはまだ何者でもなくひたすらにもがいている。

何者かになる方法は、自分のブランド価値を高めるノウハウはまだ完全にはわからないけれどやはり先駆者や世の中の尊敬する人たちから学ぶのが良いだろう、と思い最近は読書もYouTubeもSNSもアンテナを張るよう心掛けている。


後半につれて散文になっていることに気づいた方もおられると思うがお静かに。最後まで丁寧に文章を認めるのがどうも得意ではないらしい(この文量だけで一度の自己論破と二度の「何書こうとしたんだっけ…」を経験した)。

締め方が分からないのでわたしが最近読んだ本の気に入った一文の紹介でこのnoteは閉じたいと思う。

私のなかに言いなりだのつけあがるだのという言葉は、存在しない。存在するのはただ、好きである、と、好きでない、ということのみだ。
ー 角田光代『愛がなんだ』

読んで下さって本当にありがとうございます。

のん



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