マガジンのカバー画像

読むまちづくり

460
まちづくり絡みの話をまとめています。随時更新。
まちづくり絡みの記事をまとめたマガジン「読むまちづくり」。 月額課金ではなく、買い切りです。なので… もっと詳しく
¥990
運営しているクリエイター

#子ども食堂

まちづくりが「楽しくないとできない」時代はいつ始まったか?〜浅石裕司、吉村輝彦『「楽しさ」概念による「住民主体」の捉えなおし地域福祉・まちづくり分野における文献レビューをとおして』

よく知られる通り、従来の地域組織においては、どこでも担い手不足と高齢化が慢性化している一方で、子ども食堂などの新しい活動が出現し、地域で活動してもいる。 普段、従来の地域組織に関わっている立場からすれば「どうせ活動するんやったら子ども食堂もええけど、従来の組織に参加してくれてもええんちゃうの」と思いがちだ。しかし、そうはならない。ということは、なんらか理由、メカニズムがあるはずだ。 ではそのメカニズムとはなにか。そんな疑問にヒントを提供してくれる論文が、浅石裕司、吉村輝彦

コミュニティビジネスのコアは「”近さ”と”ついで性”」じゃないかと思ったっていう話。

 昨日、お仕事で、コミュニティビジネスについて考える機会があった。  コミュニティビジネスって、例えば地域団体なんかが地域社会のために、ボランタリーに近い労働で手掛けるビジネスなんかが例示されることがしばしばあって、大阪市なんかでは、地域団体による空き家の活用とか、子ども食堂もコミュニティビジネスの一つとして例示している。  さて、本来的に専門性が薄く、ボランタリーであるがゆえに安定した労働力を確保できるわけではない、いわば市場の競争においては不利な立場にあるはずの地域団

一次創作としての「まちづくり」から二次創作としての「まちつかい」へ〜あるいはカルトとアートのおはなし

 こないだ、「アートとまちづくり」みたいなテーマの話を聞くことがあって思ったことをメモしておきたい。

子ども食堂に関わる支援者に求められることはなにか

 七星純子「なぜ、子ども食堂は社会的インパクトを与えたのかー「子ども」イメージの崩壊と「食」を通じた居場所づくりの可能性ー」を読んだ。  ここのところ、子ども食堂の支援に関する仕事に触れることが続いた。それで気になったので、子ども食堂の近年の歴史を概観しようと思って探したらこの論文が出てきた。 子ども食堂の歴史〜発見、拡張、普及 一般に「子ども食堂」と呼ばれる営みが初めて行われたのは2012年に「気まぐれやおやだんだん」の例であると言われている。ここが「子ども食堂」という

「仮設」空間としてのアジールも「常設」化することで権力となるのかな、なんて話。

 さっき、「アジール・メイキング」なんていうタイトルの本がありそうだ、という思いつきを書いた。  自分が思いつくということは、誰かが既に書いているはずだと考えて、調べるとこんな論文が出てきた。  本論がレビューするところによると、アジール論においては家や都市でさえ本来はアジールである説明できるという。つまり国家なり市場なりといった上位の支配権力からの避難空間だったわけだ。

「アジール・メイキング」っていうタイトルのビジネス本がそのうち出そうだ、という話。

 このあいだ、まちづくりで「縁」的空間を作ることについて書いた。  書きながら考えて改めて私は非排除的な財としての、「縁」的空間を求めている人なんだと思ったのですね。  ただ、それはボランタリーに作らなければならないかというとそうではない。例えば大部屋の職場、デパートやショッピングモール、大きな書店、カフェ、コワーキングスペース、ホテルのロビーなど、商業ベースでなら縁的な空間は多数存在している。都市部に暮らすことの最大のメリットは縁的な空間に事欠かないことじゃないだろうか

「みんなが思い思いに過ごせる空間」を作ろうとする意図から、はからずもコミュ強しか生き残れないキメラ空間が生まれることもあるって話

 休日なんで思いつくままに最近考えていることを書く。  前も書いたけど、人間の集まる場を二軸四類型に整理すると、このようになる。  で、その中でも私はとりわけ「縁」的空間が好きだという話をした。「縁」的な空間は、「共」的な空間と違ってコミュニケーションを求められず、ある程度好きに過ごしていいし、「孤」的な空間ほど寂しくないからだ。  しかし「縁」的空間は、「共」的空間よりも作るのに資本力が必要な場合があって、経営体制が脆弱な持ち出しのボランティア活動では創出が難しいかも

「地域活動を持続可能にするためには?」ではなく「自分の活動を、ボランティアとして続けていくには?」という問いについて

 こないだ、まちづくりがらみの友人が面白い話をしているのを聞いたので、忘れないようにメモしておきたい。  それは、「自分の活動を、ボランティアとして続けていくには?」という問いだった。  これね、似て非なるやつで、「地域活動を持続可能にするためには?」ではない、っていうところがポイントで。  実は案外なされなかった問いかけなんじゃないかという気がするんだね。  我々まちづくり支援者にくる相談は、戦術のような「自分のやっている地域活動を持続可能にするためにはどうしたらい

共・縁・電・孤、あなたはどれが好き?

 こないだ読んだ、エリック・クリネンバーグ『集まる場所が必要だ孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』の好きな記述でこんなのがあった。  「図書館は、周囲の人を無視しつつ、ひとりぼっちではないと感じられる場所」。この微妙な塩梅。  本書は、この有り様を可能とする社会的インフラが、人を外出させ、死ににくくさせるということを説得的に論じてくる。  例えば郊外のショッピングモールとかに平日に日中に行くと、ベンチコーナーに高齢者が一人で何をするともなく座っていたりするが

集まることのポイントは「習慣の再配分」

 こないだね、子ども食堂について人の話を聞いていて、「ああ、なるほど」と思った事があって。それは、子ども食堂なり、学校なりが、「集まる」ことをなぜ大事にするのか、っていうことで。  例えば、僕が講義をさせてもらっている大学なんかでは、オンライン講義、オンデマンド講義は当たり前のサービスになった。京都では小学校の全生徒にパソコンを配布してオンラインで授業参加ができるインフラを整えていっている。これだけ見ると、わざわざ一箇所に集まって授業を行わなくても良さそうに見える。  子

まちづくりは、今ある需要に答える市場活動というより、本来なかったはずの需要を生み出す社会活動なんだよなって話。

 経済学でいう需要ってのは、「対価支払い準備のある欲望」のことなんですね。じゃあ、「支払い準備がない欲望」はなんというかというと、ただの「欲望」なんですね。  例えば、「まちづくりの現場には、若いボランティア労働力へ需要がある」っていうけど、あれはあんまり適当な言い方ではなくて、若いボランティア労働力への欲望はあるが、ボランティアなわけですから、対価支払準備はないわけですよ。力は貸してほしいが、お返しをするつもりはない。そういう不義理なことを考えると、ボランティアはなかなか