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読むまちづくり

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#非集

「人間集団の自動運転化」について考える

 人間の集団は、しばしば乗り物に例えられる。組織を一つの船に例えてみたりして、出港したとか沈没寸前だとか、飛行機に例えて離陸した、とか、自動車に例えて急カーブに差し掛かっている、とか。  人間の集団が乗り物であるとすると、その乗り物を運転する人間というのがいる。ハンドルを握り、アクセルとブレーキを踏み分け、事故らないように目的地まで走らせる人間だ。  世の中、「人間集団の操作スキル」というのがあって。僕らの社会には、たくさんの他人の協力を調達しないとできないことっていうの

地域社会のオンライン化が進まない、ITリテラシーの低さ以外の理由を考える

 ボヤキみたいな話なんですけどね。  この半年くらい、不思議だなあと思っていたことだけど、疫病が流行って非集化し、地域の対話の場が運営できなくなった際、「じゃあやめとこう」という判断がなされるケースがしばしばあったことで。  それまで「地域の対話は大事だよね」みたいな建前を語っていた地域団体が、案外するっと「じゃあやめとこう」といえてしまうのはなんでだろうなって、当時は思っていたんですよね。もし本当に大事なら「オンライン化してでも書面化してでも、なんとしてでもやろう」とな

オンライン化したい勢力と、元に戻りたい勢力の政治闘争が見える化してきたねという話。

 面白い記事を見まして。 文部科学省は16日、新型コロナウイルスの影響でオンライン授業を続ける大学が多いとして、対面授業の割合が半数に満たない大学の状況を調べ、大学名を公表すると発表した。  おや?と。ついこの間までオンライン化を進めてくれと言ってなかったっけ。悪意を持って読むと、まるで「まだオンラインとかやってんの?そんな大学は名前晒しちゃうよ」みたいなニュアンスに見えてしまう。それともオンライン中心でいく大学とオフライン中心でいく大学とを消費者が選べるようにするための

「集まる」という力について〜都市というものは権力によって作られるし、また、人々は権力にジョインするために都市に集まる、という話。

 これまで私たちは、様々な問題を「集める」という方法で解決するということを行ってきました。人を集めて何かをする、というのは、パワフルかつイージーな手段だったからです。しかし、疫病の流行は、この「集める」という方法を一定難しくしたように思います。そのように、問題の解決に「集める」という手段を安易に選べない状況を、僕はこれまで「非集」と呼んで考察してきました。  非集化した社会は、「集めることで有利になる人々」にとってはディストピアだったでしょうけど、一方で「いやいや集まらされ

【中間まとめ】「非集の時代」に関して書いたものをまとめてみた。

 昨今の疫病騒ぎに伴う集会への抑制がもたらした状況を、僕は「非集の時代」と名付けて注目してきました。  ここに注目してきたのは以下のような理由です。僕が仕事で関わっているまちづくりだったり、大学教育では、様々な課題解決に「人を一箇所に集める」という方法に強く依存しています。その方法を半ば強制的に断念せざるを得ない、ということは、問題解決の新しい方法を編み出さねばならない、ということです。そこには、既存の仕組みの危機があると同時に、新しい仕組みの可能性の先端が見えるわけです。

「にぎわいの創出」とは「共地性と共時性の演出」だよねっていう話。

 まちづくり活動をする人々はしばしば「にぎわい」という言葉を好んで使います。「にぎわいの創出」というのが、事業の目標として設定されることさえあります。ではこのにぎわいとはなにか。辞書的には、「人出が多く、やかましいさま」であると説明されます。まちづくりに関して言うと、「ある特定の場所で、同時に多、数の人が、特定の財を共同利用している様子」と説明できそうだと考えています。これを格好良く言えば「共地性(場所を共にしているっぽさ)と共時性(時間を共にしているっぽさ)」と言えそうだと

「非集の時代」のまちづくり〜ポスト・コロナの「ふれあい」を考える。

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