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読むまちづくり

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#コミュニケーション

頑固な高齢者/アンラーニングとドンラーニング/コミュニケーションの共創性、あるいは二次創作性

「頑固な男性高齢者」とは? まちづくり活動に関わっていると、高齢者の居場所づくりをしましょう、みたいな話にしばしば出会う。 で、この話題が進んでいくと、結構な確率で「男性の高齢者が居場所に出てこない」という話になる。 こういった場に関わる女性に話を聞くと、「男の人は頑固だからつながりたがらないのだ」というストーリーが語られることが割とある。 ここで問題になっている「つながりを避ける頑固な人」というのは、なぜつながりを避けるのだろうか。

人々にとっては、自分が参加する組織が、地縁か志縁かはあんまり関係ないっぽい、という話。

 まちづくりの担い手となる組織は、これまで、地縁型組織と志縁型組織という分類でしばしば説明されてきた。  「特定のミッションを共有する」のが志縁型組織である。特定のミッション、例えば環境問題や人権問題、貧困問題などの解決といったことである。  それに対し、ミッションではなく、偶然同じ地域に隣り合わあせた縁を契機に「地域のつながりを共有する」のが地縁型組織である。例えば町内会などの地域団体が典型的である。  で、最近、いくつかの地域活動を研究していて感じるのが、この2つで

「みんなが思い思いに過ごせる空間」を作ろうとする意図から、はからずもコミュ強しか生き残れないキメラ空間が生まれることもあるって話

 休日なんで思いつくままに最近考えていることを書く。  前も書いたけど、人間の集まる場を二軸四類型に整理すると、このようになる。  で、その中でも私はとりわけ「縁」的空間が好きだという話をした。「縁」的な空間は、「共」的な空間と違ってコミュニケーションを求められず、ある程度好きに過ごしていいし、「孤」的な空間ほど寂しくないからだ。  しかし「縁」的空間は、「共」的空間よりも作るのに資本力が必要な場合があって、経営体制が脆弱な持ち出しのボランティア活動では創出が難しいかも

共・縁・電・孤、あなたはどれが好き?

 こないだ読んだ、エリック・クリネンバーグ『集まる場所が必要だ孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』の好きな記述でこんなのがあった。  「図書館は、周囲の人を無視しつつ、ひとりぼっちではないと感じられる場所」。この微妙な塩梅。  本書は、この有り様を可能とする社会的インフラが、人を外出させ、死ににくくさせるということを説得的に論じてくる。  例えば郊外のショッピングモールとかに平日に日中に行くと、ベンチコーナーに高齢者が一人で何をするともなく座っていたりするが

「優しさ」の表現について

 思うに、優しさとは「分化しない」ことで表現できる。

「仲間や家族をつくる」ということについて。

 こんな記事を読みました。  タイトルにもあるように、「やってあげている」という気持ちで取り組むと、どうしても見返りを求めてしまい、それが「やってもらっているつもりがない」相手を呪うことに繋がるわけです。「やってあげる」くらいだから、本来幸せを祈っていた相手のはずですよね。にもかかわらず、「やってあげる」ことによって、むしろその相手を呪うという真逆の結末に意図せず至ってしまうわけです。  この現象は、まちづくりの現場でもしばしば見られることであり、それゆえまちづくりを頑張

「否定がいや」というよりも「強い言葉がいや」なんじゃないか説

 しばしば僕らはコミュニケーションにおいて、否定的な言葉を避けるべきだ、という規範を持っているらしい。例えば上司が部下を、親が子供を指導するときにどうしたらいいか、みたいなことを取り上げた記事を見ていると、否定的な言い方は避けましょうというようなアドバイスが大抵の場合採用されている。というか、頭ごなしに否定すべきだ、なんてことはまず書いていない。このことから、否定を避けるべきだという規範があることが推察される。  そりゃまあ、僕だって頭ごなしな否定はされたくはない。しかし、

外向と内向は思考を表に出すかどうかを決める閾値の違い

 「思ったことを口に出す」、つまり思考を言語で発露するかどうか、という閾値には個人差があると思うんですね。  例えば何か困ったことがあったとして、10%くらいの困りで口に出す人と、80%くらい困らないと口に出さない人というのがいると思うんですよ。  で、それぞれお互いの見え方が違うんですね。前者は後者を、「何を考えているかわからない不気味な人」と見るかもしれない。逆に、後者は前者を「細かいことで大騒ぎしている、はしたない人」と見るかもしれない。  前者はささいなことでも

「みんな、自分に都合のいいように解釈する」という解釈の都合のよさについて。

 さっき散歩していて通りすがりに面白い会話を聞いて。AさんとBさんがおしゃべりしているんだけど、AさんがBさんに「みんな、自分に都合のいいように解釈するからねー」と言っていましてね。  まあ、多分、ここにはいない、AさんBさん共通の知り合いのXさんの話だろうと思うんです。Aさんは、Xさんのことを「自分に都合のいいように解釈する人」と言って、Bさんに共感を求めているわけですね。  文字の並びだけ考えると、「みんな都合のいいように考える」というならば、AさんもBさんも「みんな

「社会の再世界化」の話。

 今朝、寝起きにふと思った話で。  以前、宮台さんが解説しているのを読んで、なるほどなと思ったのだけど、僕らの周囲には「世界」と「社会」があるっていうんですね。「社会」っていうのは、言語でコントロール可能な領域です。例えば友達に「すまんけどこれやっておいてくれない?」といえば、まあ、やってもらえますやん。このように、言語でコントロールできる領域を「社会」というと。契約書とか、法律なんか典型的で、社会をコントロールするために書かれた言語なんですね。あるいはコンピュータ・プログ

「好きなこと」という言葉より、「それをやっていると回復すること」の方がハマる気がするって話。

 よく、「あなたの好きなことをやりましょう」っていうアドバイスを目にします。それはそのとおりだし、おそらくはバチッとハマる人もいるんだとおもうんですね。しかし、僕はどうもそのアドバイスにハマれなくて。  というのも、「好きなことをしているのにどんどん疲れていく」みたいなことだってあると思うんですよね。日々忙しい仕事や家事をこなして、やっとの思いでひねり出した時間でなんとか好きなことをする。でも、タダでさえ疲れているのに、そこにさらに好きなこととはいえエネルギーを使うことを上

親切な人って、「いい人」なんじゃなく、実は「すごく頭のいい人」なんじゃないかって話。

 見ていて「ああ、頭いいなあ」と思う人っているっすね。じゃあここでいう「頭の良さ」ってなんだろうと。頭の良さの目安って、いろいろあると思うんすけど、僕にとってはその一つに「何手先まで読めるか」っていうのがあるんすね。目の前の歩を取ると一瞬得するけど、その次の手で詰む、みたいなことを読めるかどうか。  例えば僕が5手先まで読めるとして、3手先で詰むような手を打つ人はイマイチだなあてなるわけですね。だけど、お、5手先まで詰まない手を打ってきたな、とわかると、自分と同じくらい先読

「人の気持ちを分かれ」と言う人が分かって欲しいのは、「自分は人の気持ちをわかる人間だ」という信念なのではないか説。

 「人の気持ちを分かれ」と言う人っているじゃないですか。で、僕なんかは真面目なので、小さいときは「ああ、大人っていうのは人の気持ちがわかるものなんだな」と思っていたんですね。テレパシーみたいに。しかし、おとなになってもイマイチ人の気持ちをわかることに関しては確信がもてないなあと。僕もおっさんになってくると、もう「人の気持ちを分かれ」っていう言葉が、単に「俺の思う通りに振る舞え」という意味でしかないということはわかってきました。  しかし、一方で「人の気持ちを分かれ」っていう

人はなぜ「アイ・メッセージ」を偽装した「亜イ・メッセージ」を騙ってしまうのか。

 面白い記事を読みまして。 例えば「あなたは私の話を聞いていない」ではなく、「私はあなたが聞いてくれないと感じている」と、自分を主語にして話すこと。 そうすると、自分も冷静になれます。感情的にならず優しく、事実=ファクトをもとに「目の前のふたりの問題を、どうやって解決していこうか」というスタンスですね 。  「亜・アイメッセージ」と私が呼んでいる一連の言い回しっていうのがありまして。この記事で紹介されているものがそれだなあと。  まず、「私はあなたが聞いてくれないと感じ