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怒ったらすぐに人を殴る人を「感情表現が豊か」というのかって話。

 「感情表現が豊か」っていう言い回しがあって。これはしばしば「怒ったときに怒鳴る」「面白いから笑う」みたいな状態を指すことがあります。しかし、特定の感情から、ほぼ自動的に特定の身体表現がなされてしまうって、そんなに「豊か」なことなんでしょうかと。

 例えばあなたが絵を描くとします。ある心情を描写するのに、いろんな仕方がありますよね。写実的に描くのか抽象的に描くのか。赤を使うのか青を使うのか。油絵の具を使うのか水彩絵の具を使うのか。ラフに描くのか詳細に描くのか。いろんな表現手段がありえますよね。この色んな表現手段を選べる、っていうのが、表現の選択肢が豊かという意味と僕は考えます。

 てことは、「感情表現が豊か」っていうのも、「怒ったときに怒鳴る」「面白いから笑う」みたいな、特定の感情から、ほぼ自動的に特定の身体表現がなされてしまう状態って、そんなに豊かではなさそうっすよね。むしろ表現の選択肢が貧しい。

 人はしばしば「感情を敵視」します。怒ってはならない、妬んではならない、悲しんではならない。こういった感情に「負の感情」というようなマイナスのレッテルまで貼って、そういう感情を抱くことに罪悪性を感じるよう促すことがあります。

 しかし感情自体に罪は本来ないはずなんですよね。しいていうと、特定の感情表現が罪に繋がる場合があるんすよね。例えば怒ったから殴る、というのは、殴るというのが誰かの心身を傷つける行為で、それがあきませんよね、ってことなんです。それに対して、「くそー、こんな理不尽許せない!負けないぞ!」と思って、怒りを具体的に状況を良くするためのエネルギーに変えることだってできるはずですね。怒りを、殴りで表現することもできるし、別のことで表現することもできると。心理学的には「昇華」っていったりしますけど。

 感情自体はエネルギーであって、それをどうハンドリングするか、という段階の選択肢の幅が豊かか貧困かって話があるわけです。ってことは、数ある選択肢の中で、どれを選ぶのが適切なのか、っていう判断基準が大事になります。そしてそれはいわば「自分はどうありたいか、どこへ向かいたいか」っていうメタな感情なんすよね。ディープニーズっていうんすかね。案外、場当たり的に感情表現しがちですけど、そこに結びついていることが、感情を適切に扱う判断基準になるんだなあと思ったりします。

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