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「私困っているんです」と助けを求められる人って、社会起業家みたいなところがある。

 こないだ「あ、なるほど」と思ったことで。「困っている人を助けたい」Aさんが、「困っている人Bさんと出会えない」っていう場合、困っているのは、Bさんではなく、実はAさんなんだ。助けを求めるべきなのは、Aさんの方なんだなと。なんか、すげー納得したんですよね。

 「困っている人を助けられる人でありたい」って、ごく自然な欲望だと思うし、それ自体は全然いいんだけど、その結果、自分が助けられる側だっていう可能性に目がいかないっていう。

 お金に余裕がないから、困っている人Bさんのために自分は寄付はできないから、他人がBさんのために寄付するように街頭で募金箱を持って立つ、みたいな話で。

 この場合、Aさんは、「助けて」って言わなきゃいけないんだ。

 ところが、助けられる側の自分ってのを、あるがままに認められないっていう。自己否認としての人助け、ってメカニズムもありえて、それは、もちろん悪ではないのだが、切なくはある。ていうか、そもそも助ける側、助けられる側なんてデジタルに二分できる話ではなく、人はある面では人を助け、ある面で助けられる存在なんだ。同時にあり得る。

 もっと言えば、助ける側にいることを自称すること自体が、一種の自己防衛として作用することを期待されてたりもする。翻れば、助けを求める側にいることの表明が、攻撃や排除を招く場合があるってことだと思う。生活保護は甘え、みたいな論理だ。

 結果、自分は助けを求める側ではない、ということを、助けを提供する側に立つことを演じることで消極的に表現しうるわけで。そうすると、助ける側として機能していないことを、「俺は助けを提供したいんだけど、助けを求めてくれないんだ」とエクスキューズできる。せつな。

 言い換えれば、助けを求める側の立場を演じてくれる人ってのは、自らリスクをとって、他人に助けを提供する側の立場を与えているってことでもあって、起業家的な社会的価値があるといえる。リスクをとって助けを求める、ってのは、起業家の仕事。我ながら、至言かもしれない。

 それを、ビジョンがある、とか、調整型リーダーシップだ、とか言い換えてもいい。しかしなんだな、助けを求める、ってのがリスクを取る行為だって考えると、だれでもできることじゃねえなって思うよな。

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