きれいのくに(美しさ・醜さ・自分らしさ)

誠也、凛、隆志、中山、れいら。

中山だけなぜか名字呼びなのよね。誠也と凛がお隣さんで幼馴染。隆志とれいらもなんとなく似たような雰囲気。中山だけ途中から引っ越して来たのかな?あるいは中受で合流とかかしら?だからなのか、中山はいつも一歩引いて自分の意見を言わず、5人の中での調整役を担っているような立ち位置。前回の「SMAPの中間管理職稲垣吾郎」問題と絡めて考えると面白いかもしれない。

閑話休題。

高校生5人の人間関係は、優しくも残酷だ。みんなで毎日のように集まってもカラオケで歌うだけ。男の子たちは屋上で語り合ったりしているみたいだけれど、それもお互いを傷つけないように探り合って、本音「のようなもの」をチラつかせながら、相手の「出方」を確かめているだけ。そこで語られている言葉は「嘘」ではないかもしれないけれど、だからといって必ずしも、彼らの「真意」ではない。

もちろん周りにはたくさんのクラスメイト、そして同級生がいる、はず。けれどもドラマで見えるのは、第3話冒頭でVRをつけて「啓発映画」を観させられていた彼らのように、私たちが「彼ら」の身体を通して見させられている世界。それは5人だけのほとんど閉じられた狭い世界だ。そんな狭い世界の中で私たちが彼らを通して感じるのは、まるで友人の「好きなひと」を確かめてから自分の「好きなひと」を「被らないように」決めなければいけないかのような、そんな臆病な「気遣い」さえ感じてしまうような、ぎこちない空気感。

ずっと凛をみている誠也と、ずっと誠也をみている凛。
ずっとれいらを見ている隆志と、ずっと誠也をみているれいら。

中山はそんな中で、自分もれいらを見つめたいのだけれど、そうしてはいけないのではないかと、遠慮して、躊躇しているように見える。れいらから視線をそらされるようになって、その理由を知ってからは、自分の存在を消そうとまでする健気さだ。

女の子たちのどろっとした関係性とはまた違う、男の子たちの泣けてくるような情けなさと、痛々しいまでの優しさ。

5人はそれぞれに、自分という存在を誰かに受け入れてほしくて、認めてほしくてたまらない。れいらの気持ちを受け入れるために自分を消し去ろうとまでする中山の姿勢は、「トレンド顔」に生まれついてしまった性(さが)からくる諦念とでもいうべきか。いずれにせよ、「自己犠牲」とはまた別次元のものではないかと思う。だからこそ、「あなたはあなたである」と、「あなたをあなたとして、『彼ら』ではないあなた自身として受け入れるように努力したいと思う」というれいらの気持ちを受けて、中山は涙を流すのだろう(とはいえもちろん、それは単なる「嬉し涙」では、まだまだないのだろう)。

隆志は5人の中でのおちゃらけキャラだ。彼は特にれいらに対しては「とてつもなく」優しい。どこまでも優しく、決して彼女の嫌がることはしない。彼は自分が「美しくない」ことを自覚し、ふりむいてもらえるはずもないと理解しつつも、少しでも彼女につりあう人間になりたいと願っている。隆志は最後まで自分の「役割」を演じ、笑顔でいつづける。このドラマ、隆志だけは泣くシーンや悩んでいるカットがほぼない。ありのままの自分(の見た目)では到底れいらにつりあわないと理解している隆志は、最後まで心優しい「せむし男」の域を脱することはない。

隆志が泣くのはきっと、ドラマが私たちに見せることのない時間、空間においてだけなのだろう。さいごまで私たちの前で「脇役」のおちゃらけキャラを全うした隆志は、プロフェッショナルのピエロだ。

女子高生を「裏整形の魔の手」から守り更生させるという「おせっかい」な任務を遂行しながら、他方ではトレンド顔の同世代に対して屈折した感情をもつ警察官の千葉(山中崇)も、かつては「隆志」だったのかな、なんて思ったりもする。千葉はきっとあの時、凛があの病院で裏整形をしようとしていたことに気づいたのではないか。気づいたけれど見逃したのではないか。

高校生世代は親世代とはまた違い、トレンド顔で生きることも、プレーンで生きることも、どちらも苦しいのだ。

凛がれいらの真似をしてメイクをし、「パパ活」を始めた時、誠也は「パパ活やめて」「凛と仲良くなりたいから」と言った。れいらのようになりたいという凛の願いとは裏腹に、凛は凛であるからこそれいらよりも誠也に愛されるのであって、凛がれいらになってしまったら、凛はれいらには敵わないだろうし、誠也はもはや凛を愛することはできなくなってしまうかもしれない。

それなのに、肝心なところで、誠也は「自分はそのままの凛の顔が好き」と言わなかった。言えなかった。「取り返しのつかない」ことになるのに、最後までそれを言わなかったのはなぜなのだろうか(凛は止めてほしくはなかったのかな...?)。

彼には迷いと、そして後ろめたさがあったのではないか。
果たして自分は「そのままの凛の顔」が好きなのか。
自分と同じく「自信がなくてコンプレックスを持っている凛」だから安心して好きでいられるのか。

若返った妻の容姿に「自分の知らない」女性を見てとまどう宏之とは違い、たとえ凛の顔がかわっても「中身」が変わるわけではないのだから、どんな顔の凛でも好きだと誠也はいう。それは本当に誠也の本音だろうか。

そもそも整形という形で自分のコンプレックスを「修正」したあとの凛は、誠也が好きだった凛と同じだと、「中身は全く変わらない」と、本当に言えるのだろうか。

遊園地のベンチで、誠也に整形外科に付き添って欲しいと頼む凛。
啓発映画の中では、その同じ遊園地のベンチで、20代の恵理が当時の交際相手の健司に中絶を促されている。

恵理は健司の付き添いのもと産婦人科で処置を受ける。彼女の手術が終わるのを待ちながら、罪悪感と戸惑いの中で苦しむ健司。きっとその瞬間から2人は対等ではなくなっていたのかもしれない。結婚してからもずっと、この時の「借り」を返せなかった健司が、最後になぜあの場面で命を落とすことになったのかについては、結局なんの説明もなされない。あまりにも悲しすぎて、これのどこが啓発映画?なんで健司は死ななきゃならなかったのさ!と叫びたくなる。

同じく病院の待合室でとまどいと不安を感じながら、健司と同じように凛の手術が終わるのを待つ誠也は、自らの抱く不安を打ち消すように、笑顔で凛を迎える練習をする。

全く別のシチュエーションながら、ロケ地と同じ遊園地、同じベンチ、同じような病院の待合室ということもあり、2人の「彼氏」の心情が重なっていく。このドラマの最初と最後が、メビウスの輪のように、ねじれながらつながる。

大切な命を失い、絶望の中悲嘆にくれる恵理と、コンプレックスだった唇をすっきりとさせ、清々しい凛の笑顔。

病院をあとにした時、世界も日常も何も変わらないはずなのに、彼女たちに見える世界は手術前と手術後では全く違っている。中絶したことは健司以外の誰にもわからないのに、恵理の心の奥底には悲しみと罪悪感が澱のようにたまっていく。誠也以外には他の誰にも整形した事実はバレない(ほどに変化が少ない)のに、凛の心の持ちようはすっかり変わり、彼女に見える世界は輝いている。

この世でひとりだけ凛の顔がかわったことに気づいている誠也は、宏之のように、「なにかが不可逆的に変わってしまった世界」に明らかに戸惑っている。「他の誰も気づかないのに、自分がおかしいのだろうか」と、いずれは宏之のように苦しむようになるのだろうか。

誠也は自信を持って堂々と生きるようになった凛を今までのように愛することができるのか、もしかしたら不安に思っているのかもしれない。なぜなら凛を見るたびに誠也は今後、「不完全な自分自身」と向き合わなければならなくなるのだから。
あるいはいずれは誠也も、自信をもつために変わることを選ぶのだろうか。

そして凛は、「きれいのくに」の会員カードを捨てる。自分の意思でありのままであることを選んだ上の世代の「プレーン」が「自分らしく生きる」場所だったはずのあの店は、プレーンでいることを義務付けられている若い彼女の居場所には、結局はならなかった。

傷の舐め合いにみえたのか、負け犬の遠吠えに感じたのか。いずれにせよあの店はもう、凛にとっては「必要のない」場所になったのだろう。彼らを後ろに残して、振り返らずに前を向いて進んでいく凛。その「彼ら」の中に誠也は取り残されてしまうのか。

複雑な表情の誠也と「自信」を手に入れてすっきりした表情の凛。

「自分らしく生きる」選択をした凛という、一見清々しいラストにみえながら、一筋縄ではいかないのだなと唸らせる誠也の不安げな表情。「母さんだけ綺麗になったら嫌だろう?」といった誠也の父の言葉が、どろりとした感触で響いてくるラストだった。

完!





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