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*ののレシキ*

\\ blog No.15//

ブログを始めて約二週間が経ちました。

この文章を一体誰が見てくださっているのかはさっぱりわかりませんが、初めましての方にも、そして、私を既に知っていてくださる方にも、自分自身の確認も含め(笑)一度、のの歴史を書いてみようと思います。

やはり私は小さい頃から
『ちょっと変わってた』みたいです(母の証言)

ーーーーー幼少期ーーーーーー

〔自由度MAX!この世を存分に満喫する〕

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何処に行くのも、「迷子になる!」なんて発想は持ち合わせていなかったようで、いつもスタスタ一人で歩き回り、代わりに姉が「まゆちゃんがいないよ~びぇーん(泣)」と泣いてくれていたのだとか(笑)

あ。姉と二人姉妹です☆
(小さい頃はトトロの“さつき”と“めい”そのものでした。)

どちらかと言うと
『パパっ子』で

父と地域ボランティアに行ったり
山に入って山菜を採ったり

今思うと
有り余る私の好奇心を消化不良にならないよう
遊び倒してくれた父には本当に感謝してます。
そして、その体力にはただただ脱帽

父上、ありがとー。

そんな感じで爆発しまくる好奇心を振り撒きながら過ごしました。

ーーーーー中高生時代ーーーーーーーー

〔学びは与えられるものではないと知る。貪欲MAX。笑〕

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部活は中高続けて新体操部
(今はもう面影は全く!無いですが…)

チョー熱血指導に汗と涙と時々鼻血も吹き出しながら
駆け抜けた青春時代でした◯

高校は食物調理科だったのでひたすら料理の基礎を学びました。

でも、ここで学んだのは料理の技術と言うより

『学びは“学び取るもの”』ということ

待っていたって教えてもらえるわけではなく

知りたければ自分から聞く
掘り下げたければ気づく感度を上げる
身につけたければとことん練習する

とてもシンプルだけど、学びを手元に置く感覚を体感できたことはとてもよかったです。

もう一つこの時期どっぷりと時間を注ぎ込んでいたのが「扇舞」という舞踊

※お弁当は関係ないです(笑)

父のすすめで小学5年から始め(と、いうか見学に行ったら、そのまま入会していました。知らない間に。笑)続けていましたが、高校の時、全国大会へ出させて頂くご縁をいただきました。とてもマイナーな世界ではありますが、このご縁が繋がり、武道館で舞わせていただいたりもしました。

未だに、全国大会で優勝したことや、武道館に立たせていただいたことに「特別なこと」という感覚はなくて。なかなかない機会ではありましたが、あくまでそれは一、出来事な訳で、むしろ、そこまで私を根気よく育ててくださった先生や、仕事がある中、毎週岡山市内まで往復3時間送り迎えをしてくれた両親の方が「すんごい人」で。

私が思う「すんごい人」というのは

人の可能性を見つけ出せる人、信じられる人

ここ、私はまだなかなかできないので、できる人を身近に感じながら過ごせたこの時期は、とても贅沢だったなと思っています。

まぁ、当時の練習を今やると
(厳しさ的に)完全アウトなことばかりですね(笑)

お陰様で少々のことでは折れたりしない不屈の精神が養われて、今とても助かっています。笑

そんな学び(勉強以外!)にまみれた学生生活でした。

ーーーーー大学時代ーーーーーーー

〔ブラック時代を経験する・・・〕

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「私はろくに苦労もせずに育った人の痛みがわからない冷酷な人間なんじゃないか。」

何事も、「振り切ってみないとわからない」そんな極端な性格の私は、「自分」というものがわからず、その不安からグラグラと揺れていました。人間関係もぐちゃぐちゃ。お酒もタバコも嗜んでおり、救急車にも二度程乗せて頂きました。見事なまでも荒れようだったと思います。

正直に言うと
このころの記憶があまりありません。

振り返って思うのは
この頃の私は、人間ののうえまゆを根限り「耕していた」んだと思います。

これから出会う「種(ご縁)」がすくすく育っていくように
せっせと地場を耕していたんではないかと思っています。
(相当ハードな作業でしたが。笑)

色んなことがありましたが
「それあっての自分」と今は思っています。

ある意味、イイ時代でした。というか、
私が私になるためにとても大事な時代でした。

ーーーー大人になりましてーーーーー

ここからは職歴を。

岡山市内で珈琲専門店で働く

東京への就職(飲食系)が決まっていましたが、自分がやってみたいことと何かずれているような気がして「自分の感覚に従おう」と岡山市内にあるカフェを巡り(大学四年の12月)ここだ!と思ったところに履歴書を握りしめ「雇ってもらえませんか?」と殴り込み、運よく就職(笑)この時、週替りランチ&ディナーを担当するも「料理を商品として提供すること」の難しさを知り、挫折。担当を外される。が、接客技術を研究し、なんとか役に立つ(笑)

■地元の木工ギャラリー併設カフェの立ち上げに関わる。

両親からのアプローチもあり、一度地元へ。父親の知り合いの方のギャラリーカフェの立ち上げに関わらせていただく。「ゆくゆくはここを任せたい」との大抜擢ではありましたが、かくかくしかじ色々あり、一社員として働く。

■地域おこし協力隊のチームに出会い、飯炊き担当になる。

このころ、「将来古民家でカフェをしたい」という夢が生まれる。それをよく行くカフェのマスターに相談すると、「古民家改修している人たち」を紹介してもらう。のち、チームに合流し、視察の人の受け入れ手伝いや、チームのご飯作りを担当。シェアハウスの運営に関わらせていただく。この頃、働いていたギャラリーカフェのオーナーから突然クビ通告を受け、世間の厳しさ、というか惨さを知る。(もちろん大泣き◎)でも、そうせざるを得なかったのだろうな、と「経営すること」の難しさを知った今ならわかる気もします。お陰様でまた一段とたくましくなりました!笑

※これを期に野菜作りもしていました!

■「ひとやすみ」という名前でクッキー販売を始める。

職場を追い出され、随分と落ち込みましたが「泣いていたって仕方ないから何かやれば?」という友達の愛のムチを受け、知り合いのカフェにお願いしてクッキー販売をさせてもらう。


この時に生まれたのが、「ひとやすみ」という屋号。ここで初めて、自分が作ったものを買ってもらうという喜びを知る。一袋150円をバスケット一杯分。とても小さい経済だけど、どうしたら喜んで買ってもらえるか試行錯誤して過ごす。これが私の商いの原点。

■出張料理を始める。

チームのご飯作りをさせてもらう中、「ここ以外」でもこれを仕事にできないかと、出張料理を思いつく。このタイミングで、岡山県西粟倉にある「酒うらら」の道前さんと出会い、お仕事を頂く。

段取りが悪く、なかなかうまくいかない時期を「まゆちゃんの料理は愛を感じるから私は好きだよ」という神様みたいなことを言ってくださった道前さんのお陰でなんとか続け、試行錯誤を続けていました。道前さんとの出会いは、本当に有難かったです。恩人の一人。

【酒うらら】
https://www.facebook.com/sakeurara/

※懇親会。お一人ずつ作ることも。

※農業バイト先から依頼を受けたもの。必死に作りました◎

※これはこども会のお弁当

■一度、全てを手放す。

色んな方のサポートを受け、なんとか手探りで続けていた料理でしたが、やはり今の自分では、一人で食べて行くだけの仕事の質を作り出せないと思い、一度料理から離れる。挫折。この時、ずっと興味があった農業に関わりたい(好きで農業アルバイトを続けていた)と鳥取に足を運ぶ。そこで立ち寄った店の人たちと仲良くなり、店主の方の「ののちゃん、住んじゃえばいいのに♪」の一言に、移住を決定(笑)家を探し始める。

■ご縁が一気に繋がり、お店を持つという夢が形になる。

家を探している中で、古い駅舎を貸し出していることを知る。当時、お店を持つなんて頭の片隅にも無かったが、お散歩がてらその駅を見に行く。するとそこで前入っていた業者さんと管理者さんの最後の引き渡し現場に遭遇。

運よく中を見せて頂き、
運よく資料を頂き、
運よく貸して頂けることが決まる。

ここからは本当にミラクル続き(笑)
資金を用意していたは訳でもないし、知り合いもほとんどいない土地でのお店作り。とりあえず、「冷蔵庫譲ってくださる方いませんか?」と知り合いの店で話していると、隣に座っていた方が「あるよ!」と。この方は内装業をされている方でしたが、お家を終うお手伝いのされていて、この方伝いに、お店で使えそうな家具や食器、ありとあらゆるものを譲って頂きました。軽トラもない私でしたが、たまたま居合わせた農家さんが手伝ってくださったり。「なんか面白そうだね!」と、鳥取でできた友達がお店の内装を手伝ってくれたり。いや、ほんと、鳥取ミラクル。そんなこんなで、無事「駅中喫茶 ひとやすみ」がオープンしました。

■継続。

こうしてオープンした駅中喫茶ひとやすみ。


「場を持つということは「矢面に立つ」ということ。
もちろん色んなこはありましたが、場を持たしてもらったことで、沢山の方と出会うことができました。これが何よりの宝物。今では鳥取では有名な『燕珈琲』さんにオリジナルブレンドを作って頂き、珈琲好きな方たちや、初めて珈琲を飲む!という方など、色々な方とここで出会い、時間を紡ぎました。

【自家焙煎 燕珈琲】
https://www.facebook.com/tsubame.jp/

そして、二年目に突入した頃、一度は離れていた料理でしたが、少しずつ依頼を受けるように。

駅弁作り◎↑

今まで、一杯の珈琲に全力を注いできた自分でしただが(※ひとやすみは珈琲と焼き菓子のみの喫茶店)、料理への想いが日に日に増しているのに気づき始める。しかし、一人で、仕入れ、仕込み、販売、接客、経理、広報。それに加えイベント出店もしていたため、てんやわんやの日々。どうしたら良いのか考える日々を送る。



■前進。

料理への気持ちがどんどん膨らむ中、「ホンバコ」に通い始める。店長やスタッフさんと仲良くなり、不定期で「月夜にひとやすみ」というおばんざいイベントをさせていただけることになる。

あまり「おばんざい」という形式のご飯屋さんがないということもあり、沢山の方に足を運んでもらう。ますます料理が楽しくなる(笑)今振り返ると、この時から始まっていたのかもしれない。次のステップへ進む時が近づいている気がしていました。

そして、ライフスタイルの変化や大学卒業を機に、ホンバコのスタッフが全員卒業が決まる。その店長の苦悩を目撃(笑)規模は違えど、一経営者同士、これまでも色々と意見交換をしてきたこともあり、この時も色々と話していました。その中で、お互いのニーズが合致していることに気づく。「キッチンスタッフが欲しい」「料理を仕事にしたい」ただ、そうなると、私は自分の店を畳むことになる。簡単なことではなかったので、時間をかけて店長と何度も話を重ねました。

そして、ホンバコキッチンスタッフへの正式な申し出があり、私はその話をお請けしました。12月のこと。

 決まると早いもので、お店を畳むまでの三ヶ月は怒涛の日々。正直に言うと「もっと続けたかった」という気持ちもありました。ここから逃げ出すのかと自分に問う日々でもありました。だから、閉店までの三ヶ月間、よく泣きました。常連さんにお伝えする度に、胸の奥が根限り締め上げられ、自分で決めたことなのに、その決断に泣きはらしていましたね。きつかったなーと今でも思います。けど、その道を通ると決めた自分の決断は間違っていなかったと思うし、その根性を自分でも信頼しています。我ながらあっぱれ!

■そして現在。ホンバコキッチンに立って、定食作りに明け暮れる

そして現在。ホンバコキッチンに毎日立たせて頂き、日々定食作りに奮闘中!


有り難いことに、ひとやすみ時代のお客様ものぞいてくださり、いい雰囲気で入り混じっています。寂しくない!笑

このキッチンに立たせてもらうようになり、ますます料理が好きになった。

不思議なもので
いつも悩むのは料理のことで
落ち込むのも料理のことで
でも元気をくれるのもまた料理のことで。

どうも私は料理とひっついていたいらしい。

そんな、ののうえです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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