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人が幸せを感じるのってどういう理屈でなんだろう。という話


ある日の私は幸せを感じました

つい最近の出来事です。
自分の身体が元気なことってこんなに幸せだったっけ!?
と身にしみて感じた時がありました。

実は年末から少し体調を崩しておりまして、微熱や腹痛、吐き気に悩まされていました。
動けない訳ではないけれど、身体が思うように動かない。
お医者さんにも見てもらい、薬を何回か処方してもらっていました。

そんな状態だったので、外出しなきゃいけない用事があると
出先で体調大きく崩さないかな… とか
実際に駅のホームでやばい、これ家に帰れないかもしれない とか
そうした自分の体調とそれに起因した心配やドキドキ、というものをこの一か月の間常に感じながら生活を送っています。

そんな状態だったので、ある日のことです。起きた時から
「お、今日は体調がいいかもしれない」
「お、今日は薬に頼らなくても大丈夫そう」
そんな日が訪れ、その日は一日自分の体調のことを心配することがなく過ごすことが出来ました。

その時に私は感じたのです。
身体が元気って、こんなに幸せなことなんだ!
というような「幸せ」を感じました。

人はどんな理屈で「幸せ」を感じるんだろう

そしてその時、こんなことも感じました。
人は、どういう理屈で幸せだと感じるんだろうか。
ということです。

世の中には、日常には、大きいもの小さいもの様々な幸せが溢れていると思います。
しかし、その幸せは自分が気が付かないと感じることは出来ません。
そしてその幸せは、感じる人によって違うでしょう。ある人がそれを幸せだと思っても、ある人は幸せを感じないかもしれません。
その逆もまた然り。

じゃあ、人が幸せを感じるまでに通る道筋はどのようなものなんだろう。
今回は、この疑問に対して自分の思考を記して見たいと思います。

幸せは自分の過去の経験との比較なのか?

とある配信者さんが、リスナーの方と幸せについて議論している動画を発見しました。
その方の考えはとても興味深いものだったのです。
その方は「幸せ」というものを「過去の自分の経験との比較」というように話していました。
(正確に言うと、私はその動画を拝見してそういう風に受け取りました。)

例えば、お肉を例にとってみたときに、ここでは「値段が高いお肉の方が美味しい」というように美味しさと値段が比例していると仮定しましょう。

500円のお肉と1000円のお肉があります。

どちらも食べた事がある人は、1000円のお肉を食べたときに幸せを感じるかもしれません。
なぜなら、500円のお肉を食べたという「経験」がその人には存在していて、その経験と1000円のお肉を食べた「経験」を比較して、おいしさの違いから1000円のお肉を食べた時に幸せを感じるでしょう。

けれども、1000円のお肉だけ食べた人はその時に幸せを感じるでしょうか。
「お肉を食べた」という点での幸せを感じるかもしれません。しかし「美味しさ」という観点において幸せを感じるかは疑問に思います。

このように、自分の過去の経験と比較して、現在の自分が優位に立った時に幸せを感じるのだ。と、私は解釈しました。

確かにその通りだと思います。自分の中にある程度の比較材料が存在しないと、今の自分が幸せかは判断できないでしょう。

ただ、私は、人が幸せを感じるプロセスはこれだけじゃないような気がしました。

幸せとは縦の比較と横の比較が必要なんじゃないか


そして私が出した結論としては、幸せとは縦の比較と横の比較が必要である
というものでした。

ここでいう縦の比較とは、自分の今と過去の比較。横の比較とは自分と他者の比較です。
つまり
自分が幸せを感じるためには縦の比較を行い、今の自分が過去の自分よりも優位な立ち位置についている。そうした時に幸せを感じるが、さらに横の比較も行い、他者よりも自分が優位に立った時により幸せを感じる。
というものです。

先ほどと同じくお肉を例にとりましょう。ここでも値段と美味しさは比例していると仮定します。

500円のお肉と1000円のお肉があり、その両方を食べたことがある場合、1000円のお肉を食べたときに幸せを感じるでしょう。

しかし、すぐ隣で2000円のお肉を食べている人がいてその場面を目撃した時、確かに1000円のお肉を食べても幸せを感じますが、その幸せの感じ方は同じなのでしょうか。

一方で、自分が1000円のお肉を食べているすぐ横で500円のお肉を食べている人を見た場合、その時に1000円のお肉を食べて得られる幸せは、自分一人で1000円のお肉を食べた時に得られる幸せと同じなのでしょうか。

という風に私は感じました。

ここから私は人が幸せを感じるプロセスというのは、縦の比較と横の比較が行われている。という風に行きつきました。

自分の幸せになるモノサシを他人に委ねてもいいのか

「幸せ」になるプロセスをこのように解釈した私です。
しかし、この理屈で言うのであれば、自分が幸せになるかどうかは他者に委ねられているような気がしてしまいます。

いくら自分の中に経験を積み重ねても、他者との関係において幸せにも不幸せにもなることができます。
これつまり、自分の幸せになるモノサシを他人に握られているのではないか。自分の幸せを他人に委ねてしまっていいのか。
そんな風に思うのです。

いいえ、そんなのいいはずがありません。
自分の幸せは自分だけのものだと思うのです。

現代を生きていくうえで、「他人と比較しない」ということはとても難しいことだと思います。
SNSをやっていると開くたびに嫌でも比較してしまいますし、実世界だって隣の芝生は青く見えてしまうもの。

ただ、私は自分の幸せを他人に決められるのではなく、自分だけのものでありたいとそう思います。
今の私はまだ、その境地に達することは難しいのですが、いつの日か他人との比較ではなく、ありのままの、自分だけで、幸せを感じることができるようになった時、それは本当に幸せなんだろうな。と思いますし、そんな日が来ることを願っています。

今回は「幸せの感じ方」について、自分の思考を記してみました。